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[4 月号]「昭和」史の中のある半生(24)
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2014/05/01
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「昭和」史の中のある半生(24)
新社会党広島県本部顧問小森龍邦
私は、中国へ渡航する直前、部落解放運動の重大な闘いである
「近田差別裁判闘争」の渦中にあった。県解放委員会の幹部から、
中国に対する断片的知識を聞きあつめて、参考にしようといろいろ
なことを学ばせてもらっていた。
先輩の一人が「広東の街中を流れている珠江に蔑称で『蛋民』
(たんみん)と呼ばれている被差別民が、水上生活をしている。革
命後、その人たちがどうなっているか調べて帰れ」と教えてくれた。
九龍半島をイギリスの鉄道で広東の近くの深センまで行ったが、
行きは、そこで1泊しただけで、珠江の水上生活者の状況を視察す
るというのは不可能であった。
部落解放運動の活動家として、人権問題をこの国で学び、社会主
義革命との相関性を研究できないようでは訪中の意義の大半を失う
ことになる。
中国側の青年団に私の意志を伝えると、「帰国の前にもう一度、
広東に立ち寄るので、その時に、必ず珠江の水上生活者の視察がで
きるようにしたい」との言葉をもらった。
おおよそ二カ月ほどの中国各地の旅を終えて、広東に再び戻って
きた。
だが、広東に帰る前に、すでに中国の少数民族政策については、
あれこれと学ぶものがあって、新中国の「人権政策」を、いくつも
の事例をもって理解するところまでになっていた。
北京大学の学生と会ったとき、朝鮮民族は漢民族より、15角だけ多
く奨学金を支給されていると聞いた。一元が日本円の185円のと
きであった。一般の学生が13元の奨学金に対して朝鮮民族は1 3元1 5角の支給を受けているということであった。
「なぜ」という問いに対して、朝鮮民族の学生は、「われわれは
トウガラシのような辛い物を多く食べる習慣があるから…」とさり
げなく答えてくれた。
西安市を訪問したとき、到着の晩の歓迎集会と翌朝の歓迎集会と
二度にわけておこなわれたことが腑に落ちなかった。たずねてみる
と、「ウイグル族は豚の料理を食べないから、その食べ物に対する配慮から、ウイグルの青年諸君の参加の機会を作ったというわけだ」と答えてくれた。
北京における中央民族学院(少数民族の大学)を訪ねたとき、言
葉があって、文字のない民族には、「いま、その民族の歴史性にか
なった文字を作る研究をしている」ということであった。
私はそのとき、「文字のない民族は、すぐに漢字を使うわけには
いかないのか」と問い返してみた。
「民族の自主性、自発性を大事にしている。民族の力量は、その自
主・自発のなかで培われる」と言って、漢民族への同化政策はとら
ないという答えであった。
周到な少数民族政策がおこなわれているものと私は理解しうなず
いた。いよいよ二カ月余の中国の旅の最終段階の11月下旬、広東に帰り着いた。私のために、特別に蒸気船を出してくれた。もちろん私は数人の代表団員に声をかけ同行してもらった。珠江の水上に住む「蛋民」のための「水上医療船」が川の流れのなかに何隻か行き来していた。「陸に上がって生活したいものには、いつでも仕事と住宅を準備する」というのが政府の呼びかけだということも聞いた。機会に恵まれて、私はそれから19年の後、再度その地を訪れた。すでに、そこには水上生活をするものの人影はなかった。陸に上がり、立派な団地に居所を構えていたのである。
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