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6月第59回グラムシの先進国革命論
2009/06/26

第59回
グラムシの先進国革命論       北西 允
1956年のソ連共産党第20回党大会において、フルシチョフは、スターリン批判の一環として、革命過程は多様であり、先進資本主義国では平和革命の可能性があることを公式に認めた。スターリン時代には、ロシア革命が社会主義革命の唯一のモデルであるとの見方が、世界中の共産党の共通認識であり、平和革命を云々する者は、右翼日和見主義者ないしは裏切り者として、除名ないし粛正の対象になるのが常であった。
ところが、イタリア共産党の創設者のひとり、A,グラムシ(1891〜1937)は、ムッソリーニ独裁政権下の過酷な獄中生活中(1926〜1937)にしたためた32冊に及ぶ「獄中ノート」の中で、ロシア革命を批判し、スターリニズムに異を唱えていた。
すなわち、ロシア革命は、「『資本論』に反する革命であり、革命時のロシアは後進的で、「市民社会」は極めて未成熟な「ゼラチン状態」にあり、そこでは国家が全てだったため、武力による国家権力の掌握によって、革命は一応の成功を収めた。しかし、ロシアと異なり先進資本主義国では、「市民社会」が成熟して、国家から相対的に独立しているため、ロシア革命型の、暴力によって国家権力を奪取しようとする「機動戦」は通用せず、まず「市民社会」におけるブルジョワジーの「ヘゲモニー」を掘り崩してそれを手中に収めない限り、社会主義への移行は望めないというのが、彼の主要な論点であった。グラムシは、この革命戦略を短期の「機動戦」に対して長期の「陣地戦」と名付けた。彼のキーワードである「市民社会」とは「教会、学校、メディア、組合」などを含み、「ヘゲモニー」とは「合意による知的、倫理的主導権」である、と受け取ることができる。
筆者は以前、初期マルクス・エンゲルスの革命路線を、国家権力の掌握→社会の変革→多数者の支持(少数者革命)、晩年の彼らの革命論を、多数者の支持→国家権力の掌握→社会の変革(多数者革命)という図式で説明したことがある。この図式を援用するなら、グラムシの革命論は、社会の変革→多数者の支持→国家権力の掌握という図式になろうか。
尤もこうした図式化は、当然に複雑な革命論をあまりにも単純化しすぎる、との謗りを免れないであろう。 ともあれ、スターリンの死とフルシチョフ報告を機に、初めて陽の目を見たグラムシの先進国革命論は、それを最初に採択したのが、当時、先進資本主義国の中で最強のイタリア共産党だったこともあって、国際共産主義運動の間に大きな波紋を広げた。平和的で長期にわたるこの革命路線は、紆余曲折はあったものの、次第に西欧諸国の共産党の中で一定の「市民権」を得るようになっていった。「ユーロ・コミュニズム」の台頭が、それである。
 日本では、共産党が初めて自前の「61年綱領」を策定する過程で。一部からグラムシ流の「構造改革論」が提起されたが、それは多数を制することができず、「構造改革」派は、やがて離党あるいは除名によって共産党に対立する「新左翼」運動に乗り出すこととなった。
「構造改革論」はまた社会党にも影響を及ぼし、記述の「江田ビジョン」を生むヒントになった、との見方もできよう。

Olive Diary DX Ver1.0

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