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7月第60回ユーロコミュニズムの台頭
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2009/07/31
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第60回
ユーロコミュニズムの台頭 北西 允
非スターリン化の進展、中ソ対立の顕在化(国際共産主義の不統一)、グラムシ理論の
公開を機に、イタリア共産党が1956年に採択した先進国革命路線は、ニュアンスの
相違はあれ、仏・伊共産党論争を経てフランス共産党で、さらにはフランコのファッショ的弾圧から解放されたスペイン共産党でも、党の公式方針として採用されるようになって
いった。これら3党、とりわけイタリア共産党は、その実績・力量において他国の友党に
抜きんでていた。
西ヨーロッパでは、これら3党に続き殆どの共産党が構造改革路線に転換したが、当時資本主義国では最大最強の共産党であり、グラムシの盟友であったP,トリアッティ(1
927〜1964)が先鞭をつけ、E,ベルリンゲル(1922〜1984)が発展させ
たイタリア共産党の先進国革命路線が、転換の有力モデルとなった。
ユーロコミュニズムが台頭した背景には、とりわけ1970年代以降、ソ連・東欧型社会主義の低迷が明白となり、地続きの西欧では、亡命者らの証言を含め、絶えずナマの情報が流入し、労働者、左翼知識人らの間で、その欠陥や問題点が認識されるようになっていたし、
共産党員の間でもソ連型社会主義に疑念を抱く者が増えていた、という事情がある。つまり、
暴力革命を至上命題とし、反民主主義的組織体質を持った前衛党の一党支配というコンセプトは、多少とも民主主義的変革を経験した西欧では通用せず、時代錯誤の戦略だとの認識が党内外で拡大・深化していたし、当時、殆ど全ての西欧共産党で、党勢の減退が著しくなり、
選挙での後退や敗北が続いたからである。
新しい路線は、スターリン批判の枠を乗り越えて、レーニン主義批判へと発展し、@暴力
革命路線の放棄、Aプロレタリア独裁論の破棄、B民主集中制・分派禁止規定の廃止へと
突き進んでいった。
因みに日本共産党でも、1961年綱領の制定過程でグラムシの構造改革論に共鳴した
一部党員が、それに依拠した革命論を唱導したものの受け入れられず、離党あるいは除名
に追い込まれたことは前稿で触れた。しかし、上田耕一郎(1927〜2008)、不破哲三(1930〜)といった党を代表する幹部党員も、一時はこの新路線に共感していくつかの著書を公刊した。だが両人は、後に委員長・宮本顕治(1908〜2007)の逆鱗に触れ、自己批判を余儀なくされた。以後、党は、一時プロレタリア「独裁」を「執権」と改めるなどの姑息な手段を弄んだが、1976年の大会で「労働者階級の権力」と改め、2004年の「新綱領」では、この用語も見当たらなくなっている。ただし、民主集中制の組織原則は、今も堅持されている。
なお伊・仏・西の場合、ニュアンスの異なる先進国革命論は、それぞれの国の革命的思想や伝統、さらには反ファッショ闘争、独裁政権の打倒、憲法制定などの過程を培ってきた力量を背景に構想されたものであったのに対して、日本の場合は、そうした要件抜きに、主としてイタリアからの直輸入の形で論じられた、という点に特徴があった。
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