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9月第62回インドネシア共産党の抹殺
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2009/09/19
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第62回
インドネシア共産党の抹殺 北西 允
1965年9月30日から翌年にかけて起きた「二重クーデター」と、CIAも深く関与した
スハルト(1921〜2008、後に第二代大統領)によるインドネシア共産党抹殺の全容は、
今日もなお厚いベールに覆われている。
当時「建国の父」スカルノ大統領(1901〜1970)は、「指導性民主主義(形容矛盾)」
の理念のもと、民族主義、宗教、共産主義の諸勢力を統合した統一戦線=NASACOMを基軸に
独裁的権限を揮っていた。彼は、旧宗主国オランダによって長年押し付けられてきたモノカルチ
ャー経済から脱却すべく、オランダ系石油会社の国有化、外資の導入、ソ連、後には中国の援助
などを通じて民族資本の育成に努めた。しかし、その成果は直ちには実らなかった。物価は年々
高騰し、民衆は塗炭の苦しみを嘗めた。
この間、アイジットの率いる共産党は、スカルノの庇護の下、農地改革の自力断行を通じて急
速に勢力を伸張させ、政変時には中国・ソ連に次ぐ300万人の党員を擁する巨大政党に成長し
ていた。それに対抗する支配層の地主勢力には、主として米国の軍事指導・援助を受け、親米反
共に立脚する陸軍将官らがついていた。一方、ソ連の援助・訓練に依存していた空軍将官には
親共のスタンスを採るものが少なくなかった。
スカルノは独裁的権限を揮ったとはいえ、その直接的基盤は弱く、彼の役割は、共産党対陸軍・
地主勢力のバランサー以上のものではなかった。従って左翼が強くなれば、彼の姿勢も勢い左傾化
する。彼は、国連から脱退し、中国等と組んで新興国による第二国連創設へと動き出すとともに、
民衆の批判をそらすため、英国の肝煎りで統合されたマレーシア連邦を新しい植民地復活の脅威と
見立て、それとの対決姿勢を露にした。
10月5日は国軍創立記念日に当り、全国から陸軍部隊が、首都ジャカルタに集結する。この強
力な武装勢力を背景に、左傾化するスカルノ政権の転覆を狙う右翼軍事クーデターが企画されたと
しても不思議ではなかろう。現にスカルノ親衛隊長のウントン中佐は、ナスチオン陸軍参謀総長、
ヤニ陸相ら7名からなる「陸軍評議会」のクーデター計画を嗅ぎ付け、直ちにスカルノに報告した。
スカルノはクーデターを阻止するため、首謀者の暗殺を命令したのではないかと思われる。ウント
ン中佐らの率いる部隊は、65年9月30日深更、7将官の私邸を襲い、危うく難を逃れたナスチ
オンを除く6名の将官を暗殺した。ナスチオンの指示を受けたスハルトは、直ちに配下の部隊を動
員し、スカルノ、アイジット、ダニ空相らが立て篭もるジャカルタ郊外のハリム空軍基地を包囲し
た。
アイジットは共産勢力がより強力な中部ジャワへ飛んだが、スカルノは一旦中部ジャワに向かいな
がら、日和見主義に陥ったのか、ジャカルタに引き返しボゴール宮殿に篭って「この騒乱は軍内部の
紛争に過ぎない」として、国民に冷静を保つように呼びかけた。
スハルトの共産党員狩は膨大かつ凄惨を極めた。「ブンガワン・ソロ」という歌で知られる中部ジャ
ワのソロ川は首なし死体で川床が盛り上がり、流水は何日も赤く染まったままだったと言われる。共
産党には皆殺しに対する備えは出来ていなかった。スハルトは次いで、真綿を首で締めるようにスカ
ルノを追い詰め、翌66年3月11日、遂に大統領権限委譲を認めさせた
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