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第13回 イギリス労働党の誕生
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2005/06/17
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第13回 イギリス労働党の誕生
去る5月5日の総選挙で第二のサッチャーともいうべき、Tブレア(1953〜)の率いるイギリス労働党は、とりわけイラク侵略戦争に率先加担したのがわざわいして前回よりかなり議席をへらしたものの、結党以来初の三連勝を果たしたことは記憶に新しい。ところでイギリスは他国に先駆けて産業革命を遂行し、労働組合の結成も最も早かった。ところが労働者政党や社会主義政党の創設という点では、大陸諸国よりかなり遅れをとった。これは19世紀中葉、イギリスが「世界の工場」の地位にあって労働者の賃金や労働条件も他国よりかなり高水準にあり、また1880年代末まで労働組合が、産業別や階級連帯に背を向けた熟練工の特権的組合の域を出なかったからでもあった。
さらに普通選挙権の獲得もフランス等の国に遅れ、1884 年の選挙法改正でようやく男子普通選挙が成立するが、それまで労働組合は二大政党の一翼を担っていた自由党の「テーブルからこぼれ落ちるパンくずを拾う」ことに甘んじていた。
しかし内には1878年に始まった長期不況と、外からのアメリカ・ドイツの朝鮮に直面してイギリス資本主義の優位は揺らぎ、労働組合も未熟練労働者に門戸を開放して大勢の建て直しを余儀なくされた。こうした状況を背景に労働者政党結成の機運がようやく高まり、1884年にはフェイビアン協会やマルクス主義的傾向を帯びた社会民主連合などの社会主義の宣伝団体が結成され、1893年に独立労働党が創設される運びとなった。労働組合のナショナルセンターTUCも、これらの動きを糾合して1900年に労働者の代表を議会に送るため団体加盟の労働者議員選出委員会(1906年に労働党と改称)を誕生させた。労働党は第二インターへの加盟は認められたものの、社会主義という「新しい福音」には耳を傾けるには至らなかった。党名を第二インター加盟政党の一般的な呼称である社会民主とか社会主義としなかった理由もそこにあった。なおフェイビアン社会主義が労働党の指導理念として採択されたのは1918年の党大会においてである。
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