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社会主義の歩みと将来への展望 第63回プラハの春
2009/11/11

社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第63回プラハの春
広島大学名誉教授 北西 允

1956年以降、東欧諸国では、ソ連追従からの脱却に向けた
様々な動きが噴出してくる。
同年6月のポーランド・ボズナニにおける反ソ暴動に続き、
10月にはハンガリーの首都・ブダペストで労働者・学生の反ソ動乱が起きた。ソ連は軍隊を投入してこれを武力鎮圧し、改革に同情的だったナジ政権は打倒され、替わって親ソ派のカダルを頭とする新政権が樹立された。ナジはその後程なく処刑された。
東ドイツでも、農業集団化の加速策に抗して西ドイツへの逃亡者が急増し、その流れを阻止するため、政府は1961年8月から「ベルリンの壁」の構築に着手する。これらの動きの中で最も世界の注目を集めたのは、「プラハの春」と呼ばれる60年代後半のチェコスロバキアにおける一連の事象である。
チェコスロバキアでは、1956年以後も大統領と共産党第一書
記を兼ねるA・ノボトニー(1904〜74)の独裁体制は比較的安定していた。ところが60年代に入ると、独裁政治や経済の停滞に対する国民の不満が徐々に高まり、著名な劇作家V・ハベル(1936〜)は、67年6月に開かれた作家同盟大会で公然と体制を批判した。それと前後して共産党内部でも、ノボトニーの役職兼務問題が持ち上がり、10月の党大会では、ノボトニー支持の親ソ派と、A・ドプチェク(1921〜92)を先頭とする改革派の間で激しい論争が起きた。だが論争の決着は、ひとまず先
送りされた。
その間ドプチェクの党内多数派工作が功を奏し、68年1月の党中
央総会で、彼は党第一書記に選任された。総会は、同時に検閲を事実上廃止したこともあって、改革への流れは一層勢いを得た。その後ノボトニーと親密な関係にあった国防相幹部のアメリカへの亡命、彼を支えてきた党・政府幹部の辞任が相次いだため、ノボトニーは、同年3月遂に大統領職の辞任をも余儀なくされた。第二次大戦の「英雄」であり、穏健な改革派だったL・スボボダ(1895〜1972)がその後を襲った。
さらに4月の共産党中央委総会は、@党への権限集中の是正、A
粛正された犠牲者の名誉回復、B連邦制導入によるスロバキア問題の解決、C企業責任や市場機能の導入による経済の改革、D言論や芸術活動の自由化、E西側との経済関係の強化から成る『行動綱領』を多数で採択した。6月には、これとほぼ同工異曲の内容で、オリンピックの金メダリスト、ザトペックやチャスラフスカが署名したことでも知られる『二千語宣言』が、新聞紙上に掲載された。
事態を憂慮したL・ブレジネフ(1907〜82)らのソ連指導部は、67年5月から翌年にかけ、数次にわたりチェコスロバキアとの二国間会談、また改革の自国への波及を恐れたポ―ランド、東ドイツ、ハンガリー、ブルガリアの親ソ指導部を加えた多国間会談で、ドプチェクの改革路線を反革命的だと批判し続けた。
それとともにソ連を、盟主とするワルシャワ条約機構軍は、6月中旬から1カ月に及ぶ軍事演習を繰りひろげて圧力をかけた。
そして遂に1968年8月、ルーマニアを除くワルシャワ条約機構軍はチェコスロバキアに進攻し、ドプチェクら改革派幹部を一時拘禁した。翌69年4月ドプチェクに替
わって、改革派から親ソ派に転じたG・フサーク(1913〜91)が党第一書記に就任し、ドプチェクらの改革派幹部は除名されて「プラハの春」は終わりを告げたのである。
Olive Diary DX Ver1.0

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