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【2005年11月号】社会主義の歩みと将来への展望
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2005/11/18
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自立的連帯を求めて(17)
広島大学名誉教授 北西 允
(第17回)レーニンとロシア10月革命
第一次大戦末期のロシアでは反戦気分が軍隊にまではびこり、1917年2月、首都ぺとログラードでストライキ鎮圧に赴いた兵士が、労働者と提携してソビエト(労兵協議会)を立ち上げた。ソビエトはやがてロシア全土に波及し、1905年の帝政崩壊後に成立した臨時政府と並んで二重権力状態が出現した。4月に亡命先のスイスから帰国したレーニンは、革命の性格と方針を明確に説いた「四月テーゼ」を発表し、名実ともに革命の指導的地位に就いた。7月の武装蜂起失敗後、レーニンは一時隣国フィンランドに逃れるが、10月に帰国すると「すべての権力をソビエトへ」と訴えて武力革命の指揮に当たった。労農同盟に基盤をおくボリシェビキ党と社会革命党左派(左翼エス・エル)による社会主義10月革命は、大きな抵抗もなく成功し、レーニンはソビエト人民委員会の初代議長に選ばれた。
ソビエト政権は、即日「ブルジョワ新聞」の廃刊を命じ、12月には反革命的言動を取り締まる秘密警察・チェーカーを創設し、翌18年1月には憲法制定議会を強制的に解散し、正式国名として「ロシア社会主義ソビエト共和国」を採択したぬ。一方、ソビエト政権は、レーニン主導のもとに1918年8月ドイツとの間に単独講和条約を結んで戦争から離脱することに決した。またボリシェビキ党は、食糧徴発問題を巡って農民を支持基盤とする左翼エス・エルとの決定的に対立した。それらがもとで左翼エス・エルは政権から離れた。
ソビエト政権はモスクワに遷都し、ボリシェビキ党はロシア共和党と改称し、1918年7月に「ソビエト憲法」を制定した。政権は、翌8月左翼エス・エルの叛乱鎮圧を契機に共産党以外のすべての政党を解散させ、マルクスが唱えたプロレタリア階級の独裁は共産党の一党独裁に書き換えられることになった。この「代行主義」は、さらに党中央委員会の独裁、そしてレーニンの死後、幹部間の権力闘争を勝ち抜いたL.V.スターリン(1879〜1953)による個人独裁へとエスカレートしていく。
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