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【06.2月号】社会主義の歩みと将来への展望(20)
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2006/02/16
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自立的連帯を求めて(20)
広島大学名誉教授 北西允
(20)社会主義勢力の共産主義と社会民主主 義への分裂
反戦の立場を貫き革命に成功したロシア共産党は、革命を他国に波及させるべく、世界革命とプロレタリア独裁を基本方針に、1919年第2インターに替わるコミンテルン(第三インター)を創設して革命勢力の国際的結集に乗り出した。
敗戦後のドイツでは、国王退位後、社会民主党主導下にワイマール共和国(その憲法は、日本国憲法にもある「社会権」を世界で始めて規定したことで知られる)政権が誕生し、ドイツ共産党による暴力革命を鎮圧したことは既述した。
しかしコミンテルンの呼びかけに応じて、それへの加盟を真剣に検討した社会主義政党も少なくなかった。たとえばフランス社会党(1905年創立)は戦後、レーニンに次ぐロシア共産党の幹部・L.トロツキー(1879 〜1940 )の工作もあって、第二インターからの脱退を圧倒的多数で決議し、一時コミンテルン加盟へと大きく傾いた。しかし加盟条件があまりに厳しかったため、大半は加盟を断念して社会党を再建し、左派だけがフランス共産党を名乗ってコミンテルンの傘下に入った。
イギリス労働党は、その他の社会主義政党と異なり、1900年の創設時に「社会主義」あるいは「社会民主主義」という呼称を意識的に斥け、「労働」を党名として発足し、大戦までは自由党左派の庇護の下にあった。だが1918年、同党は、資本主義の危機と社会主義運動の国際的高揚の中で、非マルクス主義の微温なフェビアン社会主義を指導理念とする一種の社会主義綱領を初めて策定した。労働党の一加盟団体であった弱小のマルクス主義政党・イギリス社会党は、コミンテルンに加盟して党名をイギリス共産党と改称した。因みに日本共産党も、1922年コミンテルン日本支部として結成されている。
1923年には反共・非共の社会主義勢力によって第二インターが復活するが、これによって、戦前、第二インターに加盟していた左右両派の国際的社会主義勢力は、共産主義対社会主義、革命主義対改良主義というのっぴきならぬ対立に陥ったのである。
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