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2006/04/12

第22回ロシア共産党内の権力闘争  北西允
 資本主義体制は、第一次世界大戦によって大きく揺らいだが、ドイツ革命の失敗後次第に革命の波は遠のき、1924年ころから敗戦国ドイツなどを除いて相対的安定期に入っていく。一方資本主義を打倒したロシアでは、戦時共産主義、ネップ(一時的な市場経済政策への回帰)と革命政権の経済政策は左右に揺れた。その間ロシア共産党内部では、一国社会主義を目指すべきか、革命をヨーロッパ先進諸国に波及させるべきかという問題をめぐって指導者間で激しい論争が繰り広げられた。論争は権力闘争の様相を帯びていたが、結局、Iスターリン(1879〜1953)が政敵を放逐して実権を握り、以後はスターリンの個人独裁のもとで一国社会主義を志向するようになる。
 スターリンがロシア革命で演じた役割は決して大きなものではなかった。しかし、彼が1922年に共産党書記長の地位を得てからは、左右の反対を排除するためあらゆる術策を弄した。書記長として党官僚を掌握していたのが彼の強みであった。スターリンは、レーニンの晩年、まずコミンテルン議長G.ジノビエフ(1883〜1936 )、全ロ・ソビエト中央委議長L.カーメネフ(1883〜1936 )とトロイカを組み永続革命を唱える左派のトロツキーの失脚を画策した。しかし、レーニン死後、スターリンへの権力集中を恐れたジノビエフとカーメネフは、今度はトロツキー派と合同してスターリンの一国社会主義に反対した。これに対してスターリンはも『史的唯物論』(1921)などの著作でレーニンの厚い信頼を得、指導部の一角を占めるようになったN.ブハーリン(1888〜1938)と組み、1926年ジノビエフをコミンテルン議長から引きずり下ろしてブハーリンを後継者に据え、翌27年にはカーメネフを除名に追い込んだ。だが、工業化と農業集団化を巡ってスターリンと対立したブハーリンは「右翼」とのレッテルを貼られ、やがてコミンテルン議長の地位などを奪われることになる。
 こうして革命の過渡期としてのプロレタリア独裁は、党の独裁、中央委の独裁、そして遂にはスターリン個人の独裁へと変質していったのである。

Olive Diary DX Ver1.0

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