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【2006.5月】社会主義の歩みと将来への展望 (21)
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2006/05/14
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自立的連帯を求めて(21)
広大名誉教授 北西允
第23回 ソ連「一国社会主義」とコミンテルン 左右の政敵を指導部から放逐したスターリンは、自己の独裁的支配を強めるとともに「ソ連は世界の革命の砦」という建前のもとに、ソ連一国の国力充実に意を尽くした。さらに彼の意志は、1920年代末以降コミンテルンを媒介にして世界各国共産党に決定的とも言える影響を及ぼしていった。
もともとコミンテルンの創設自体、社会改良主義の克服という課題のもとに企てられたものであった。したがってレーニンをはじめロシア共産党の指導者らが、社会民主主義にきわめて批判的であったのは事実である。しかし、コミンテルン創設から1924年の第4回大会までは、様々な社会主義・労働者勢力との統一戦線を模索する試みも企てられなかったわけではない。
ところが、革命情勢が遠のいて資本主義が相対的安定期に入り、スターリンがソ連共産党、ひいてはコミンテルンに君臨するに及んで、社会民主主義勢力に対するその方針はいちじるしく排他的なものと化していった。とりわけ1928年のコミンテルン第6回大会は、台頭するファシズムを前にして、社会民主主義その他の民主勢力と手を組んでそれを阻止しようとするどころか、社会民主主義=社会ファシズムとまで規定し、社会民主主義に「主要打撃の矛先を向けよ」との極左的方針を打ち出した。
翌29年のニューヨークにおける株式大暴落に端を発した大恐慌は、たちまち資本主義世界全体に波及し、資本主義経済は大混乱に陥った。大恐慌の打撃が最も著しかったドイツでは、ナチスが1933年遂に権力を掌握するが、コミンテルンが社会民主主義に対する方針を転換して「反ファッショ統一戦線」戦術を採択するのは、その2年後の第7回大会に置いてである。この間、ソ連では一種の「開発独裁」体制下で社会主義建設5ヵ年計画は着実に実施に移され、国力は大きく増進したのである。
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