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【11月号】第64回 新左翼とフランス「五月革命」
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2009/11/29
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第64回 新左翼とフランス「五月革命」
広島大学名誉教授 北西允
イタリア共産党が先鞭をつけたユーロ・コミュニズムは、国家権力の掌握以前に、市民
社会におけるヘゲモニーの獲得に主眼を置く新たな革命路線を指向した。だが、強大な資本の支配下で、市民社会のヘゲモニー獲得を目指す闘いは決して容易な作業ではなかった。
事実、この新路線を採択した西欧共産党の実績は、あまり芳しくはなかったし、それらの運動は、次第にいわゆる社民路線に収斂していくことになる。
こうした事態に業を煮やした新左翼運動の一部、とりわけ学生らの若者たちは、トロツキズム、あるいは晩年の毛沢東思想やアナルコ・サンジカリズム等の所説に依拠して、1960年代後半以降、より過激な革命路線を追求するようになった。折しも先進資本主義国では、高度経済成長によってビッグ・ビジネスは巨万の富を手にするとともに、経済領域のみならず政治・社会・情報・文化の各分野で強大な影響力を行使して、社会生活全般の管理化を押し進めていた。同時に、アメリカのベトナムに対する
理不尽かつ非人道的な侵略戦争はその頂点に達していた。またソ連を先頭とするワルシャワ条約機構加盟諸国は、チェコスロバキアの民主化過程を不法にも封殺しようとしていた。
ラディカルな新左翼運動は、こうした情況に対する強硬な異議申し立てという形をとって、欧米諸国や日本などの先進国で噴出していく。
その嚆矢となったのはフランスの学生運動である。1966年にストラスブール大学では、教授が独占する位階制度に反対する運動が高まり、それはやがて、名門ソルボンヌ大学学生による自治と民主化の闘争に受け継がれ、類似の運動は、忽ちのうちに全国の大学に広がった、これらの学生運動は、世界的規模のベトナム反戦運動やチェコスロバキアの民主化を封じようとするソ連の動向に対する憤激とも重なり合い、多数の労働者が学生運動に同調して、翌68年5月には「自由・平等・自治」を標榜する約1万人規模の学生・労働者が、首都パリでゼネストに打って出た。交通システムはマヒ状態に陥り、学園・職場ではストライキが相次いだ。事態はまさに政府危機に発展する可能性を秘めていた。「五月革命」と名づけられた所以である。共産党も、最大の労組ナショナルセンター・労働総同盟(CGT)を通じてストライキを組織したが、一方では街頭バリケードの構築やカルチェ・ラタンなど地域占拠の挙に出た学生らの行動を一貫して非難し続けた。
第5共和制下に独裁的権限を握っていた大統領ド・ゴールは、警察力では事態を収拾できないと考え 、軍隊を出動させて運動の鎮圧に当たらせた。他方ド・ゴールは、学生の法的自治権の容認、教育制度の民主化、労働者の団結権の拡大等の措置によって危機的事態の沈静化に努めるとともに、国民議会を解散し、総選挙を実施して人心の一新を図った。この選挙でド・ゴール派は圧勝し、「五月革命」は急速に収束に向かった。
フランスの「五月革命」は、中国の「文化大革命」とともに、世界規模で学生の叛乱を促した。1968年5月以降、ドイツ・イタリア、イギリスなどの大学で、また同年夏には日本でも「大学紛争」が一斉に噴出していくのである。
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