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【2006.6月】第24回 イギリス労働党、政権担当へ
2006/06/14

第24回 イギリス労働党、政権担当へ
                          北西允
 1900年に誕生したイギリス労働党が、政権獲得をめざす政党に脱皮したのは1918年のことである。この年、労働党は政策と組織の両面を整備して、ようやく政党としての体制を整えるに至った。
 まず政策面では、結党以来初めて党綱領を策定した。それは1884年創立のフェビアン協会が提唱した反マルクス主義的な一種の社会主義思想に基づくものであった。フェビアニストは、資本主義を批判するに際して、当時サンジカリストを含め広く社会主義陣営で採用されていたマルクスの余剰価値説を斥け、D.リカルド(1772〜1823 )の地代論とW.Sジェボンズ(1835〜1882)の限界効用学説を援用した。綱領は、社会の基底を資本家と労働者の対立ではなく、生産者と消費者の対立と捉え、搾取は生産過程ではなく分配ないし流通過程で起きると説いた。生産手段は将来、国有や自治体所有に移されるべきであるが、その管理、経営に当たるのは、フェビアニズムを体得したエキスパートが最適者だと述べ、社会主義は、改良の積み重ねを通じて漸進的に実現されると主張した。
次に労働党は創立以来、労働組合を主体とする団体加盟一本槍の特異な組織形態をとっていたが、1918年の再編で初めて個人にも加盟の道を開き、選挙区に党組織を設置して本格的に選挙戦に備えるようになつた。労働党は、普通選挙戦の段階的実現、自由党の一時的分裂によつて党勢を伸ばし、1924年と1929年には少数党ながら政権を経験することになる。
 しかし、労働党の政権体験には、実は支配階級による党の体制への馴致策という側面があった。大恐慌下の1931年、国王は自由党党首の進言を受け入れ、労働者に厳しい犠牲を強いる緊縮財政を実行させるため、労働党党首マクドナルド(1866〜1937)に「挙国一致内閣」の組閣を命じたのである。
Olive Diary DX Ver1.0

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