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【2006.9月】第27回 日本社会主義の他律性、だがしかし
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2006/09/20
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第27回 日本社会主義の他律性、だがしかし
北西允
日本の社会主義の歴史を振り返ってみて、その中にヨーロッパ諸国で生まれた社会主義とは異なる独自の発想を見いだすことは、甚だ難しいように思う。社会主義には左右に大きく広がるスペクトルがあるが、日本の左、右、中間いずれをとっても、かの地で提唱された社会主義祖述の閾を出ていない、といっても過言ではないかろう。
日本最初の社会主義政党だった1901年結成の社会民主党が、ドイツ社会民主党エルフルト綱領を下敷きにして『社会民主党宣言』を策定したことは既に述べた。1922年にコミンテルン日本支部として誕生した日本共産党の『日本共産党綱領草案』(1922 )も、当然ながらソ連共産党の指導の下にボルシェビズムを踏襲していた。同党の有名な二七テーゼ、三二テーゼがいずれもソ連製だったことに、今や疑問を挟むものはいない。この傾向は、第二次大戦後も変わっていないのではないか。戦後の日本社会党は、主としてウカツキーないしベルンシュタインの流れを汲む社会主義を提唱していたし、社会党から分離した民主社会党綱領に至っては、ニュー・フェビアニズムに基づくイギリス労働党綱領の引き写しに他ならなかった。日本共産党は、スターリン存命中はスターリニズムを唱導していたし、非スターリン化の流れの中では「自主独立」を唱えながら、実際上はイタリア共産党を開祖とするユーロ・コミュニズムの後を追っていった。
しかし、上述のような断定はいささか乱暴との謗りを免れないかも知れない。というのも、例えば1901年の『社会民主党宣言』の第一に掲げられた「同胞主義」が、「人種の差別、政治の異同に拘わらず人間は美奈同胞たり」と謳ったことは、植民地支配の現実を軽視しがちだった西欧社会主義より進んでいたと言えようし、第二の「平和主義」が「万国の平和を為すためには先ず軍備を全廃すること」と主張したことは、世界に冠たる憲法9条を先取りしたものとして注目に値するからである。
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