≪最新の記事10件≫
2014/05/01 [4 月号]新社会党広島県自治体議員活動
2014/05/01 [4 月号]時言
2014/05/01 [4 月号]「昭和」史の中のある半生(24)
2014/05/01 [4 月号]「戦争をさせない1,000人委員会」呼びかけ
2014/05/01 [4 月号]翼
2014/05/01 [4 月号]見え透いた嘘
2014/05/01 [4 月号]新社会党広島この一ヶ月の動き
2014/05/01 [4 月号]「チェルノブイリデー」に参加
2014/05/01 [3 月号]時言
2014/05/01 [3 月号]「昭和」史の中のある半生(23)
【10月号】第28回 日本における社会主義運動の受難
2006/10/19

第28回 日本における社会主義運動の受難  北西允
 1901年創設の社会民主党、後身の社会平民党が即日解散の憂き目にあった後、初めて合法的社会主義政党として産声をあげたのは1906年結成の日本社会党である。幹部は堺、西川、片山ら、党員は約200人、機関誌『光』日刊紙『平民新聞』を発行し、東京市電運賃値上げ反対闘争、足尾銅山争議等を指導したものの、党内の幸徳らアナキストとの対立を深め、政府は翌年、直接行動論の台頭による過激化を理由に同党を解散に追い込んだ。さらに1910年、幸徳らの「大逆事件」に対して政府は大弾圧を加え、その後しばらく社会主義運動は「冬の時代」を迎えて沈滞を余儀なくされた。
 しかし、第一次世界大戦、ロシア革命、米騒動などを契機に社会主義運動再興の気運が高まり、1920年には社会主義勢力を総結集すべく一旦は日本社会主義同盟が結成されたものの、内部抗争はやまず同盟はまもなく分解した。その後左派の堺、荒畑寒村(1887〜1981)山川均(1880 〜1958 )らは、1922年、コミンテルンの指導下に非公然の日本共産党を結成した。共産党を除く「無産政党」は、しぱらくこれに遅れをとっていたが、1925年の男子普選の成立を機に改めて単一無産政党の創設が呼びかけられ、翌26年に日本農民組合委員長の杉山元治郎(1885 〜1946 )を党首に労働農民党が誕生した。しかし、地方支部が組織される過程で容共的立場をとる地方党員と反共主義に立脚する右派幹部との対立が激化し、同年末、右派の安部磯雄(1865〜1946 )
らは別個に社会民衆党を結成し、これと相前後して中間派の三輪壽壮(1880 〜1956)らも日本労農党を創設した。分裂後の労働農民党は、新たに大山郁夫(1880〜1955)らの指導の下、共産党の合法組織的役割を演じ普選後最初の1928年の総選挙では28万票2議席を獲得した。だが、共産党が1926年に制定された悪名高い治安維持法によって28年3月15日に致命的弾圧を食ったのに続いて、同年4月には労農党も結社禁止処分を受けるに至った。労農党衆議院議員・山本宣治(1889〜1929)はその翌年右翼青年に暗殺された。これより先、アナキズムの流れを汲むサンジカリズムは、1928年の関東大震災の際、大杉栄(1880〜1923)が憲兵によって虐殺されて以来壊滅状態に陥っていた。他方、社会民主主義諸党は、とりわけ1931年の日中戦争勃発以降、国家社会主義的傾向を強めて自壊の道を辿っていった。


Olive Diary DX Ver1.0

Copyright © April,2005 新社会党広島県本部