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2006【11月号】社会主義の歩みと将来への展望第29回
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2006/11/20
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社会主義の歩みと将来への展望
第29回 ナチスの制覇によるドイツ社会主義運動の崩壊
広島大学名誉教授 北西允
第一次大戦後、敗戦国ドイツに成立したワイマール共和国は、男女普選とともに生存権や団結権などの社会権をも保障する当時としては世界で最も民主的な憲法をもっていた。ところが、社会民主党主導の政権は、過酷なベルサイユ条約による莫大な賠償金の支払いに苦しみ、労働者を始め、市民生活はうなぎのぼりのインフレによつて極度に圧迫された。
社共の確執は募る一方で、その間隙をつくかのようにヒトラー一味が台頭してくる。1932年のミュンヘン一揆に失敗したヒトラーは体勢を建て直し、左右激突の狭間に埋没する中間層を取り込んで徐々に勢力を伸張していった。当時のドイツは、西ヨーロッパでは後進資本主義国の部類に属していたとはいえ、市民社会がある程度生育していたため、ヒトラーが権力を獲得して野望を実現するには大衆運動を組織して社会の民主的基盤を掘り崩す必要があった。「天皇制ファシズム」が上からのファシズムと言われるのに対して下からのファシズムと言われるゆえんである。
それはともかく、1924年以降アメリカ資本のバックアップ(ドーズ案等)を得てドイツ経済は復興に向かい、1925年のロカルノ条約、翌26年の国際連盟加盟を経てドイツは国際社会に復帰した。ただ、社民党主導の政権は次第に右傾化を深め、社民党大統領F.エーベルト(1871〜1925)の急死後、「第一次大戦の英雄?」ヒンデンブルク(1847 〜1934 )が1925年に主に軍部と保守勢力に推されて大統領に選出された。
1929年、ウォール街の株式暴落に端を発した大恐慌はドイツを直撃した。資本家とユンガー(大地主)、さらには軍部が急速にナチス支持に傾き、多くの国民もベルサイユ体制の打破を唱えるヒトラーを支持するようになった。そのため、ナチス党は1930年以降一挙に得票と議席を伸ばし1932年には第一党の地位に進出した。さらに翌33年2月「国会議事堂放火事件」を仕組んで政敵・共産党を非合法化に陥れ、同年3月ヒンデンブルクの任命を受けて首相に就任するや、ヒトラーは議会に「授権法」を制定させてあらゆる権限を一身に集中し、全政党を解散させた。長年の伝統と強大な組織力を誇った社会民主党も解体され、ワイマール共和制はわずか十数年で終わりを告げたのである。
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