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2006/12/11

第30回 フランスの反ファッショ人民戦線
 広島大学名誉教授 北西允
 1933年にナチスが政権を握った後、それまで対立抗争を重ねてきた社会民主主義と共産主義の両勢力は、ようやくファシズムの危険性を明確に認識するようになった。ドイツやイタリアでは、ファッショ政権の苛烈な弾圧によって公然と抵抗運動を企てる余地はなかったが、隣国フランスでは、ナチスの政権獲得以前から両勢力の歩み寄りが始まっていた。 1932年、フランスの著名な作家らのイニシアティブによってアムステルダムで国際反戦大会が催され、38ヵ国から2194人が参加し、翌33年にもパリで第2回大会が開かれた。フランスの社共両党はこの動きを積極的に支持した。さらに1934年2月、右翼がフランス議会を攻撃した事件を契機に、社会党系の労働総同盟が提唱したゼネストに共産党系の統一労働総同盟も参加し社共両党間の提携が実現した。また政府レベルでも翌年5月、ソ仏間に相互援助条約が締結された。
 こうした状況を受けてコミンテルンは、1935年7月、従来の方針を一転させ「反ファッショ人民戦線」戦術を打ち出した。それは単に社共間の統一戦線というにとどまらず、ファシズムに反対し平和と民主主義を擁護するすべての勢力を結集しようというものであった。フランスでは社共両党に急進社会党(名称からくるイメージとは異なり、穏健な改良主義政党)が加わり、1936年4月の議会選挙で人民戦線派が圧勝した。その結果、社会党のL.ブルム(1872 〜1950)を首班とする人民戦線内閣が成立し、共産党も閣外協力の形でこれに参画した。人民戦線政府は、長期有給休暇(いわゆるバカンス)の保障、労働組合の地位向上、週40時間労働制、教育の民主的改革など価値ある施策を遂行した。
 しかし人民戦線政府は、先に成立していたスペイン人民戦線政府に対してF.フランコ(1892〜1975 )が企てた軍部の反乱に毅然とした態度をとらず、また急進社会党と共産党が抜き差しならぬ対立に陥るにつれ、1938年には事実上解体の方向を辿った。さらに同年9月、チェコスロバキアのズテーテン地方の割譲というヒトラーの理不尽な要求に対し、フランスは、イギリスとともに当事国チェコ抜きの独伊とのミュンヘン会談で「宥和政策」を採ってそれを受け入れたため、ソ仏の協力関係にも終止符が打たれたのであった。
Olive Diary DX Ver1.0

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