|
【2月号】第32回 スターリンの大粛清
|
2007/02/13
|
社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自立的連帯を求めて(32)
第32回 スターリンの大粛清 北西允
ソ連崩壊前後からスターリンによる理不尽な粛清の具体的事実が一層明らかにされてきた。事態の全貌はまだ必ずしも明確ではないが、粛清は暴力革命にはつきもののようにも思われる。古くはフランス革命時、ジャコバン派・M. ロベスピエール(1758〜1794)の恐怖政治下における粛清の例があり、近くは中国革命にともなう毛沢東による粛清もよく知られている。だが、ソ連における粛清は著しく冷酷かつ大規模゜で、レーニンに始まりスターリンに至ってその極点に達した。
レーニンの死後、スターリンは一応党の実権を握ることになるが、古参党員を中心に彼の方針に抵抗するものが少なくなかった。そうした状況の中、1934年、スターリンの右腕と言われたC.キーロフ(1886 〜1934 )が暗殺されるという事件が起きた。これがスターリンによる粛清のきっかけとなった。事件直後、トロツキーに対してスターリンと手を組んだジノビエフ、カーメネフが、事件関与の疑いで逮捕され結局は処刑された。事件はスターリン自身が仕組んだとの有力な説もあるが定かではない。
いずれにせよこれを契機に、スターリンの粛清は次第にエスカレートしていった。とりわけ、1937年から1938年にかけ「大粛清」の嵐は、クレムリンからソ連全土に吹きすさび、途方もない数の犠牲者が出た。ブハーリン元コミンテルン議長、ルイコフ元首相をはじめ、中央委員及び同候補139人中98人が処刑された。赤軍創始者だったトロツキーの影響が残ると目された軍隊の粛清は苛烈を極めた。「赤いナポレオン」と謳われたトゥハチェフスキー元帥を筆頭に、元帥5人中3人、将官295人中185人が刑場の露と消えた。
粛清は、党や軍にとどまらずそれ以外の人々にも及んだ。犠牲者の総数については説が別れているが、1930年代に「反革命の罪」で命を落としたものは約70万人。このほか農業集団化に伴う富農撲滅政策で死亡したものは、最大の推計で700万人にも上るといわれる。強制収容所で死んだものも合わせれば総数は千万人規模に達するという。外国人粛清者の中には、山本懸藏、伊藤政之助、国定定洞をはじめソ連亡命中の日本の共産主義者十数名も含まれている。
代行主義は頂点を極めた。プロレタリアの独裁は、スターリン個人の独裁に取って代わられた。翻ってみればロシア革命、共産党政権樹立そのものに問題があった。制憲議会でわずか4分の1しか議席を取れなかったボルシェビキが武力で議会を解散させ一党独裁体制を築いたこと、戦時共産主義下で農民から食糧を強制挑発したこと、クロンシュタットにおける水平の叛乱を無惨に鎮圧したこと、反対者を逮捕・投獄し処刑したこと等々。「大粛清」の種は、すでに革命過程において蒔かれていたのである。
|
|
|
|