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2010年1月 社会主義の歩みと将来への展望
2010/04/15

社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第66回 ポル・ポトの「原始共産主義」    
広島大学名誉教授  北西 允

 カンボジアは、19世紀中葉以来フランスの植民地であったが、1953年にN・シハヌーク(1922〜)を国王にして宿願の独立を果たした。しかし、ベトナム戦争の勃発とともに政情は不安定となり、ポル・ポト(1925〜98)の率いる極左武装集団=クメール・ルージュの蜂起とアメリカや南北ベトナムの介入によって、カンボジアは次第に内戦状態に陥っていく。68年からは米軍の全土空襲が始まり、それが結果的にクメール=ルージュの勢力伸張を招いた。
 1970年3月、アメリカは、親米的な首相兼国防相のロン・ノルを唆して「容共派」と見ていたシハヌーク国王を放逐するためクーデターを決行させた。これに対しシハヌークは、外遊先の北京から反米、反ロン・ノルのカンプチア民族統一戦線の結成を呼びかけた。シハヌークは、かつては弾圧の対象だったクメール・ルージュと手を組むことを躊躇していた。だが毛沢東や金日成らの説得によって、彼は1975年に帰国し、名目上クメール・ルージュのトップの座に就いてその支持の拡大に大きく貢献した。
 圧制と腐敗によって国民の不興を買い、1973年のアメリカのベトナム撤退に伴い後ろ盾を失ったロン・ノル政権は、75年4月もろくも崩壊した。首都プノンペンを制圧したクメール・ルージュは、「米空軍による爆撃を避けるため」と称して都市市民を強制的に農村に移住させた。重病人や妊婦や幼児も例外ではなく、行き先も告げられず炎天下を何ヶ月も歩かされ、多数の死者を出した。翌年1月、シハヌークを元首とする「民主カンプチア」政権が樹立されるが、実権はポル・ポトに握られていた。
 ここからポル・ポトの「原始共産主義(原始共産主義社会には支配者は居なかったし、まして暴虐な独裁者など出るはずもなかった)の実践」が本格化していく。晩年の毛沢東思想が導きの糸となったと言われ、「文化大革命」の有力指導者の一人、康生の薫陶を受けたとも言われるが、ポル・ポトは、自己の理念を極限まで追求し続けた。市場、貨幣、学校、病院は廃止され、知識人や専門家は抹殺された。ポル・ポトの政策に不満や批判的見解を抱くものは、容赦
なく虐殺された。集団農場における過酷な仕事だけが、唯一の価値ある労働だと見做された。飢餓が蔓延し大量の死者が出た。
 危うく粛清を免れたクメール・ルージュの幹部、ヘン・サムリンらはベトナムに亡命し、78年12月にカンプチア救国民族統一戦線を結成した。救国戦線は、ベトナム軍の支援を受けてカンボジアに侵攻し、翌年1月にはプノンペンを占領して「カンプチア人民共和国」の樹立を宣言した。以後カンボジアの内戦は、ソ連が支援するヘン・サムリン、ベトナム連合軍対中国がサポートするポル・ポト軍という構図で続いた。 それとの関連で、79年2月には一ヶ月間の中越戦争が起きている。
1982年7月、カンプチア人民共和国に対抗して、ポル・ポト・シハヌーク・ヘン・サン(ロン・ノルの流れを汲む)三派から成る「民主カンプチア連合政府」が結成され、中国の支援のほか米(レーガン)英(サッチャー)政府からの資金援助を受け、国連も正統政府として認知した。しかし結局、ポル・ポトは、部下によって監禁され、裁判中の1998年4月に死去し、クメール・ルージュも翌99年には解体された。


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