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【9.10月号】 第39回第2次世界大戦後のイギリス労働党−
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2007/10/23
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第39回第2次世界大戦後のイギリス労働党多数政権
人類史上もっとも凄惨かつ広範な人的・物的被害をもたらした第2次世界大戦は、1945年夏にようやく幕を閉じた。大戦は、とりわけ被侵略国や敗戦国の民衆に対し想像を絶する災厄を与えたが、戦火にまみれた戦勝国の人民にも耐え難い苦難を強いた。
イギリスは、バトル・オデ・ブリテンニ勝利してナチスの侵入を辛うじて食い止めたものの、多くの命が失われ、首都ロンドンをはじめイングランド南半分はドイツ軍の執拗な空襲に遭うなど国土は荒廃し、アメリカやカナダは莫大な戦債を負った。それを全額弁済し終えたのは、実に昨年末のことである。
イギリスを勝利に導いた「英雄」が、W.チャーチル(1874〜1965)であることは衆目の一致するところだが、イギリス国民は、1945年の総選挙でチャーチル率いる保守党を見捨て、むしろ無名と言ってもよかったC.アトリー(1883〜1967)を頭に戴く労働党に、結党以来始めて絶対多数の議席を与えた。その要因の最たるものは、わずか二十年の間隔で、イギリスが戦った二つの大戦による民衆の犠牲の厳しさであった。
労働党政権は、反マルクスの姿勢をとるフェビアン社会主義にケインズ経済学を加味した綱領に基づき、基礎サービスと、石炭産業など一部基幹産業の国有化に踏み切るとともに「揺りかごから墓場まで」と称えられた無料の医療サービス(健康保険ではなく国家には国民の健康を保障する義務があるとの発想による)を中心とするかなり充実した社会保障政策を実施した。だがこれらの施策は。資本主義体制を揺るがすものではなかったし、社会改良主義の域を出るものではなかった。
しかし、イギリスのような大国で、労働組合を主要な基盤とする単独政権が誕生し、一定の社会改良政策が実行されたことは、当時世界の注目を集めた。戦前、社会民主主義の拠り所と看做されたマルクス主義の流れを汲むドイツ社会民主党は、ヒトラーの政権獲得後もろくも解体され、一挙に権威を失墜していた。替わって戦後、イギリス労働党が、共産主義に対抗する社会民主主義の結集軸しなった。
1947年に結成された国際社会主義会議委員会(コマコス)の政綱は、イギリス労働党の1945年綱領と瓜二つであった。コミコスは、1951年に社会主義インターナショナルへ発展的に解消することになる。
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