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【11月】第40回 二大政党制とイギリス労働党
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2007/11/25
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社会主義の歩みと将来への展望 北西允
第40回 二大政党制とイギリス労働党
かつてエンゲルスは、『イギリス労働者階級の状態』1892年版への序文の中で、、イギリス二大政党制を「ブルジョア支配を永久化させるシーソー・ゲーム」だと論じたことがある。「議会がすでに封建制度に対する闘争の道具としての連枝的使命を果たし終えた後も、ブルジョワジーは、議会が労働者を縛り付けるのに適しているかぎり、大衆を惑わせ、階級闘争を抑制する最も有効な基盤としてそれを温存し、保守・自由の両党をシーソーの両端に据えることによって労働者の攻撃をたくみにかわそうとした」と。この定式は、保守・自由の二大政党制が、第一次大戦時の自由党の分裂、両大戦間の保守・自由・労働の三党○立期を経て、第二次大戦後の保守・労働の二大政党制に変貌した後も、基本的には妥当するように思われる。
戦間期に労働党は、1923〜24年と1929〜31年の二度、少数党政権を担当しているが、主としてこれらの経験を通じ、労働組合党として発足した労働党は、政策・組織の両面で既成政党に追随する姿勢を強めていった。すなわち政策面では資本主義体制の根本には手を触れず、組織面では党首と議会党(議員グループ)の優位を確率したということである。そのため、労働党が自由党に替わって二大政党制の一翼を担うようになっても、政権の交代はスムースに行われ、政策の大転換は起こらなかった。
アトリー政権が実行した社会改良政策は、保守党の政権奪還によって一部後退したものの、基本的には維持された。以後「鉄の女」M.サッチャー(1925〜)が、1979年に政権に就くまで、労働党がアメ、保守党がムチの役割を演じながら、ほぼ同じ年数、政権を分かち合い、「シーソー・ゲーム」を演じてきた。それを可能にした一つの大きな要因は、小選挙区単純多数代表法という最も非民主的な選挙制度だったと言えよう。それは、1884-85年に男子普選の実現と抱き合わせの形で初めて導入された選挙制度で、勃興してきた労働者ないし社会主義政党の議会進出を阻止する点に主眼があった。
表示するゆとりはないが、イギリスの議会選挙史上、この選挙制度は、第1党に対し得票率を大幅に上回る議席を与え、第2党には得票率にほぼ見合った議席を与える一方、第3党以下には投票率をはるかに下回る議席しか与えないか、あるいは全く与えないという結果をもたらしてきたのである。
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