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【12月】社会主義の歩みと将来への展望41
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2007/12/28
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第41回 社会主義インターの結成
北西 允
第二次世界大戦が終結に近づいた1945年3月、イギリス労働党のイニシアチブによって、主に連合国側に属する社会民主主義政党の代表者らがロンドンに集まり、インターナショナルの再建を決議した。それを受けて、1947年には国際社会主義会議委員会(コミスコ)
が結成され、コミスコは1951年6月、社会主義インターナショナルに発展的解消を遂げた。結成時、社会主義インターには、主として英、仏、西独、伊など西ヨーロッパの社会民主主義政党を中心に世界34ヵ国の政党が加盟した。
第二次大戦を同盟国側に立って共に戦った米ソの関係は、戦後年を追って悪化し、冷戦状態、というより1950年に始まった朝鮮戦争に代表されるように、「熱戦状態」に陥るほど敵対的になっていった。それに呼応するかのように、社会主義インターき、反ソ反共の旗幟を鮮明にし、資本主義よりも共産主義を主敵とみなす新たな理念として、旧来の「社会民主主義」に替わる「民主社会主義」を標榜し、共産主義勢力との提携や接触さえ禁止した。
したがって1951年の結成大会で決議された『宣言』には、1930年代後半における共産主義勢力との統一戦線の結成などという発想は、まったく影を潜めた。基調演説を行ったイギリス労働党代表のM.フィリップのごときは「(ソ連を仮想敵国とする)軍備の再構築が平等を犠牲にして進められても、それは社会の発展に役立さえする」と説いたほどである。西欧の社会民主主義政党は、ほとんど一様に1949年に設立された北大西洋条約機構(NATO)を支持する立場をとっていた。他方、同時に採択された『民主社会主義の目的と任務』では、「社会主義インターは、思想の固定化した一様性をまったく要求しない国際的運動である」と謳い、加盟政党の自主性を尊重する緩やかな国際連帯の組織であることも明らかにした。
当時、反共右派の主導下にあったとはいえ、なおマルクス主義の影響を残していた日本社会党も、進んで社会主義インターに加盟した。だが社会主義インターには、当初から西欧偏重の嫌いがあった。そのため、1953年の第3回大会では、植民地問題を巡ってその解決に消極的だった西欧社民諸党に対するアジア社会民主勢力の不満が高まった。そうした状況を背景に、同年、ビルマ(ミャンマー)、インド、インドネシアの社民政党の呼びかけで、社会主義インターの枠内にアジア社会党会議が設置され、日本社会党もこれに参加したのである。
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