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【1月】第42回 日本社会党 結党から左右の分裂へ
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2008/01/29
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第42回 日本社会党 結党から左右の分裂へ
敗戦の、1945年11月に戦前の無産政党関係者らが大同団結して、他党に先駆け日本社会党を結成した。社民民衆党系の片山哲(1887 〜1978)、西尾末広(1891〜1980)らは同党右派に、日本労農党系の河上丈太郎(1889〜1965)、浅沼稲次郎(1898〜1965)らは中間派に、日本無産党系の鈴木茂三郎(1889〜1970)、全国水平社の松本治一郎(1887〜1996)らは左派にそれぞれ位置した。結党当初は右派が主導権を握っていた。
社会党は、労働運動の高揚と占領当局のバックアップによって新憲法施行直前の1947年4月の総選挙で比較第一党の地位を得、日本民主党お呼び国民協同党と組んで党委員長・片山を首班とする連立内閣を組織した。しかし片山内閣は、財源確保を巡る大蔵省と経済安定本部の対立が社会党左右両派の対立に飛び火し、わずか十か月で崩壊した。その後を継いだ芦田均(民主党総裁)内閣にも社会党は政権与党として参画し、西尾は副総理を勤めたが、GHQ内部の権力闘争の過程で発覚した昭和電工疑獄事件で芦田や西尾が逮捕されたため、同内閣も八か月で瓦解した。なお、片山内閣では、西尾の強行な反対で左派の入閣は認められず、芦田内閣には左派からも入閣したものの、最左派の黒田寿男(1899〜1986)らが予算案に反対して除名され、労働者農民党を結成するなど内部抗争は絶えなかった。 1949年の総選挙で、社会党は前回の143から48へと議席を激減させた。その結果を受けて開かれた党大会は党の路線を巡って紛糾した。森戸・稲村論争として知られる「国民政党か、階級政党か」という路線の対立である。この対立は「階級的大衆政党」ということで一応は収拾された。
しかし、1950年の朝鮮戦争勃発、翌51年の講話・安保条約締結によって左右の分裂は不可避となった。すなわち左派は、@全面講和A中立堅持B外国軍基地反対C再軍備反対の「平和四原則」に基づいて両条約に反対したのに対し、右派は再軍備に積極的な西尾と消極的な河上との対立もあって明確な方針を打ち出せず、安保条約にのみ反対の立場をとった。1951年10月の臨時党大会は分裂の大会となり、以後左右両派は、それぞれ同じ党名を名乗って左右に分裂した。
分裂直前、社会党の委員長に就任した鈴木が、「青年よ銃をとるな」と訴え、非武装中立論を唱えたことは、特記されるべきであろう。党内では左派が優勢になっていたが、それは労組から共産党の影響を排除しようとしてGHQの肝いりで結成された日本労働組合総評議会(総評)が、急速に左旋回を遂げて左派を支持したのが主たる要因であった。
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