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【2月】社会主義の歩みと将来への展望43回
2008/02/15

社会主義の歩みと将来への展望
第43回コミンテルンは解体 だがスターリニズムは存続・拡大
 もともと「単一の世界共産党」とも言うべき性格を持っていたコミンテルンは、スターリンが「一国社会主義論」を唱え、左右の「大粛清」を通じ自己の絶対的指導権を確立して以降は、各国の革命運動の支援などではなく、ひたすらソ連の外交手段として機能するようになった。F.フランコ(1892 〜1975 )の叛乱によって危機に瀕したスペイン人民戦線政府への支援も甚だ不十分であったし、中国では国民党との提携を重視し同党の共産党に対する弾圧を黙認したほどである。だが、1939年の独ソ不可侵条約の締結と第二次大戦初戦のポーランド分割ほど、そのことを露骨に表し世界を驚倒させたものはなかった。コミンテルンの人民戦線戦術はこれによって終止符が打たれた。
 しかし結局、ナチス・ドイツは、1941年に不可侵条約を破棄してソ連に侵攻し、ソ連は連合国側に加わって枢軸諸国と戦うことになる。スターリンは、1943年、同盟諸国への譲歩の一環としてコミンテルンを解散させた。ソ連は、ナチスの不意打ちを喰らって大苦戦を強いられ、首都モスクワさえ一時陥落の危険にさらされた。だがソ連軍は、アメリカなど連合国の支援もあってスターリングラード攻防戦を凌いだ後、一気に反転攻勢に出、クルスクの戦車戦を勝ち抜き、ドイツ軍を追走してベルリンを占領しヒトラーを自殺に追い込んだ。軍民を通じ二千万の犠牲を蒙りながら勝利したソ連は、ファシズムの支配から解放した東欧などの国々と地域にスターリニズムを信奉する政権を押しつけた。
 第二次大戦をいわば同床異夢の形で戦った米ソ両国の関係は、戦後悪化の一途を辿った。1947年、ソ連はコミンテルンの後身として東欧の共産主義諸政党に仏・伊の共産党を加えて新たにコミンファルムを結成した。これは表向き加盟各党間の情報交換を目的に掲げたが、世界の共産主義運動をスターリンの支配下に留め置くことを狙いとしていた。コミンファルムが、1950年、アメリカ占領軍を解放軍と規定し、占領下平和革命論を唱えた日本共産党の方針(野坂理論)を「マルクス=レーニン主義とは縁もゆかりもない」とこき下ろしたことは、その象徴的出来事である。
 ソ連はまた、アメリカ主導のNATO(1948 〜)
に対抗してワルシャワ条約機構(1955〜1991)
を結成し、マーシャル・プラン(1948)に対抗してコロコン(1949)を編成した。これらによって東欧諸国はソ連の衛星国化することとなった。こうしたスターリニズムの支配拡大に抵抗したのは、ユーゴスラビアのJ.B.チトー(1892〜1980 )と晩年の毛沢東である。左右の違いはあるにせよ、かれらは、いずれも殆どソ連軍の援助なしに自国を解放し、あるいは社会主義革命を成功させた点に共通点があった。

Olive Diary DX Ver1.0

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