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【3月】第44回 国共内戦と中華人民共和国の誕生、そして危機
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2008/04/29
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第44回 国共内戦と中華人民共和国の誕生、そして危機
1945年10月、蒋介石と毛沢東は日本の降伏を受けて重慶で会談し、統一国家の建設について論議を交わした。だが両者の対立は鋭く、翌46年7月、国共両党は遂に全面戦争に突入する。当初は国民党軍が優勢だったが、共産党軍は、農村部では地主の土地を没収して農民に配分し、都市部では「賢弁官僚・資本家」の腐敗・堕落を糾弾して国民の支持を集め、アメリカの武器援助に支えられた国民党軍を次第に圧倒していった。
共産党軍は、1948年には瀋陽、翌48年には北京、上海、南京を相次いで占領し、蒋介石は台湾に逃れた。内戦はなお1951年まで続いたものの、勝敗の帰趨はもはや明らかであった。1949年10月1日、毛沢東は、中華人民共和国の成立を宣言し、自らは国家主席に就任し、国務院総理には周恩来(1898〜1976)を任命した。
先述(第35回)のように、毛は1940年に『新民主主義論』著していたが、そこに説かれていた当面の革命路線は、孫文の遺志を継承・発展させて、プロレタリア独裁政権ではなく、中間層や敵の一部までも引き込んだ「連合政府」の樹立を目指すものであった。したがって建国時は共産党の単独政権ではなく、、政府の方針も、@封建制度の打破、A賢弁官僚・資本家の一掃、B帝国主義からの解放に力点がおかれた。まず@では、1950年に「土地改革法」を公布し、土地改革を押し進めて自作農の創設に努めるとともに、把頭(親方)制の解体、女性解放、少数民族差別の解消などの施策が実行された。次にAでは、賢弁官僚に対する反汚職、反浪費、反官僚主義の「三反主義」に続き、資本家に対して贈賄、脱税、国有財産の横領、手抜き工事、インサイダー取引を断罪する「五反主義」が追求された。さらにBでは、列強の半植民地状態に置かれていた中国の帝国主義からの解放を目指した。朝鮮戦争への派兵もその一環だと言えよう。
1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、建国間もない新中国にとって死活の試練となった。当初は金日成(1912〜94)の率いる北軍が、圧倒的軍事力でソウルを席巻し、李承晩(1875〜1965)の南軍を朝鮮半島の一角に追い詰めた。アメリカは、ソ連の国連ボイコットを好餌に安保理の決議を取り付けて参戦した。D.マッカーサー(1880 〜1964 )の率いる「国連軍」は仁川上陸作戦に成功し、38度線を突破しピョンヤンを陥れて中国との国境線・鴨緑江に迫った。このとき中国は、彰徳儴(1898〜1964)を司令官とする「人民義勇軍」を投入して反撃に出た。以後戦線は38度線を挟んで一進一退を続け、膠着状態に陥った。アメリカは、原爆の使用や華南侵攻をちらつかせたが、主戦派のマッカーサーは解任され、1958年には「停戦協定」が締結されて朝鮮戦争は一応の終息を見た。このように新中国は、軍事緊張下における国の再建という厳しい道を強いられたのであった。
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