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【4月】第45回 フルシチョフのスターリン批判
2008/04/29

第45回 フルシチョフのスターリン批判

 歴史には数十年もの間、状況が殆ど変わらない場合もあれば、1年のうちに状況が一変する場合もある。社会主義関係について言えば『共産党宣言』が発表された1848年がそういう年だったし、またソ連共産党20回大会が開かれた1956年がそういう年に当たると言ってよい4.1848年には、フランスでは2月革命、ドイツでは3月革命が起こり、イギリスではチャーチスト運動が最後の盛り上がりを見せ、オーストリア等でも革命的動乱が発生した。1956年には、エジプト・ナセル大統領のスエズ運河国有化断行に対し、英仏両軍はいったん出兵するが、国際的非難の大合唱の中で撤退を余儀なくされた。それは旧い帝国主義に弔鐘を打ち鳴らした事件であった。同年、共産主義運動にも大きな変化が現れた。2月のソ連共産党第20回大会におけるN2フルシチョフ(1894〜1971)の「スターリン批判」と、同年末のハンガリー事件がそれである。これを契機に国際共産主義運動の中で「非スターリン化」の動きが表面化し、中ソ対立も次第に激化して、かつてスターリンの専制下に一枚岩を誇った共産主義運動は、次第に分解と崩壊の道をちどることになる。フルシチョフは、大会の「秘密主義」でスターリンを非難したのだが、ソ連当局はその後もこの報告を公にしなかった。それを全文スッパ抜いたのは、なんとアメリカ国務省であった。
フルシチョフは「秘密報告」の中でせ大要次のように述べた。@スターリンに対する個人崇拝の強要は、党生活や社会主義建設に重大な障害をもたらした。Aレーニンは死の直前、スターリンの指導者としての資質を問題視したが、スターリンはこの指摘に耳をかさず、党の規律を無視し専横な独裁者として振る舞った。Bスターリンは、1934年の第17回大会で選出された中央委員・同候補の70%、代議員の56%を粛清したが、その大半は濡れ衣だった。Cスターリンの弾圧は、有能な活動家・軍人・知識人から無辜の市民にまで及んだが、彼らに科せられた罪状は殆どデッチ上げだった。Dスターリンはヒトラーの野望を見誤り、対独戦初期にソ連が蒙った兵士・国民および財産の莫大な犠牲は、もっぱら彼の責任に帰せられる。Eスターリンは、ソ連と東欧諸国との関係維持にも責任があり、その最たるものはチトーとの関係悪化で、結局ユーゴスラビアを敵対陣営に追いやってしまった。
 こうした「スターリン批判」にも拘わらず、フルシチョフはその年の10月〜11月、「非スターリン化」をさらに推し進め、ソ連から離反しようとしたハンガリーに軍隊を差し向け、抵抗する市民ら多数を殺傷した。ここにフルシチョフ改革の不徹底さを端的に見てとることができる。フルシチョフは農業政策の失敗を口実にやがて権力の座を追われ、守旧派のL.ブレジネフ(1907〜82)がそのあとを襲うのである。
Olive Diary DX Ver1.0

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