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【5月】第46回 キューバ革命
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2008/05/30
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第46回 キューバ革命
長年「アメリカ合衆国の裏庭」と蔑まれてきた中南米に、近年、反米帝の左翼政権が続々と誕生している。その先駆となったのは、1959年のキューバ革命によって樹立されたF.カストロ(1926〜)政権である。
1898年の米西戦争に勝利したアメリカは、カリブ海の要衝、旧スペイン領キューバを事実上の保護国とし1903年にはグアンタナモ基地の永久租借を認めさせ、基地周囲を地雷原にして外界からの隔絶を計った。今や米軍による人権侵害のシンボルとして世界中の非難を浴びるようになったこの基地は、メディアの接近はおろか、アメリカ国内法やジュネーブ条約の適用もない米軍の恣意的な監獄の役割を担い続けている。
戦勝後、歴代アメリカ政府は、キューバに対し親米政権の維持と主要産業は砂糖きび生産だけというアメリカ依存のモノカルチャー経済を押しつけてきた。ところが1952年、政情不安の中、軍事クーデターによって政権を握ったバティスタは、対米依存を深める一方、強権支配を恣にした。この暴政に抗して、学生や左翼団体等による反バティスタ運動が高揚してくる。1953年夏、カストロはわずか130名の同志とともに武装蜂起の挙に出たが、この企ては失敗に終わり大半の者は討ち死にした。逮捕されたカストロは15年の刑を宣告された。だが2年後、恩赦により釈放されてメキシコに亡命する。
アルゼンチン生まれの医師、チェ・ゲバラ(1928〜1967)は、ラテンアメリカ放浪の途次、各地の悲惨な状況を見聞するうちマルクス主義に共鳴し、グアテマラでは米企業の接収やインディオの復権のために闘っていたアンベンス政権を支持するが、CIAの工作や内部の裏切りによって政権が崩壊するとメキシコに逃れた。彼はそこでカストロと出会い、キューバ革命への参加を誓うことになる。この時点では、カストロはまだ社会主義者ではなかった。
カストロ兄弟とゲバラらは、プレジャー・ヨットに乗って秘かにキューバに入国し、山中に立てこもってゲリラ活動を展開し、一進一退ののち次第に勢力を拡大して1959年初頭には首都ハバナに迫った。政府軍は内部から崩壊し、バティスタは国外に逃亡を余儀なくされた。カストロは政権を掌握したものの、直ちにラディカルな政策に打って出なかったため、アメリカもほどなくカストロ政権を承認した。
しかしカストロ政権が、アメリカ企業財産の没収、国有化政策に手掛けるに従い、両国の関係は急速に悪化した。1959年末、アメリカ国家安全保障会議は、カストロ政権転覆を計画し、有名なビックズ湾事件をはじめ数次にわたってカストロ暗殺、革命政権の転覆を謀ったが、ことごとく失敗に終わった。翌60年、なおキューバ国内にあったアメリカの製油所が、石油の供給を拒否するに及んで、キューバはソ連からの石油購入に踏み切った。それを契機に、アメリカはキューバとの国交を断絶し、キューバはソ連に急接近したのであった。
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