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【6月】第47回 中ソ、蜜月から対立へ
2008/06/17

第47回 中ソ、蜜月から対立へ
 毛沢東は、1949年10月の中華人民共和国建国宣言後、「向ソ一辺倒」の外交戦略を打ち出した。同年12月、毛はモスクワを訪問してスターリンと会談し、国際共産主義運動におけるスターリンの「功績」を高く評価した。それを受けて翌年2月、中ソ両国は、軍事同盟や技術協力など多方面にわたる協力関係を盛り込んだ有効期間30年の「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結した。スターリンの存命中、両国関係は蜜月状態にあるように思われた。
 ところが、1956年ソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフのスターリン批判に際し、毛沢東はフルシチョフの改革路線を「現代宗制主義=右翼的偏向」だとする見解を抱き、以来両党、引いては両国の関係は次第に悪化の一途をたどるようになる。
 1957年10月、ロシア革命40周年記念式典に出席のため、再度訪ソした毛は、モスクワ大学で、「東風は西風を圧す」との講演を行い、暗にフルシチョフの「平和共存政策」を批判した。翌58年7月、今度はフルシチョフが初めて訪中し、中ソ共同艦隊の創設等を提案したが、中国側の同意を得ることはできなかった。
 この間、中国の社会手記的発展が進まないことに苛立ちを覚えた毛沢東は1958年、工業・農業生産を飛躍的に増大させるという「大躍進政策」に乗り出した。だが、この政策はあまりにも無謀だった上、自然災害も重なって膨大な数の餓死者を出した。そのため、毛は59年4月に政策の誤りを認めて国家主席の地位を降り、その後を受けて劉少奇(1898〜1969)が国家主席に、ケ小平(1904〜97)が党総書記に就任した。
 しかし国家主席の交替後も、中国のソ連に対する「修正主義」批判は止まなかった。これに対しソ連は1959年6月、中国への原爆供与に関する技術協定を破棄し、翌60年6月には中国に派遣していた技術専門家を引き上げた。またソ連は、1959年〜62年の中印国境紛争に際しインドに対して武器援助を行った。一方中国は、キューバ危機に際してソ連がとった政策を、「左翼冒険主義」と「右翼日和見主義」の二重の過ちを犯したと厳しく非難した。さらに中国は、1963年の米ソ英三国の部分的核実験禁止条約を、核兵器廃絶を望む世界の世論を欺く大ペテンだと罵った。フルシチョフは1964年、農業政策の失敗のかどで失脚し、L.ブレジネフ(1907〜82)が党書記長に、A.bコスイギン(1904〜80)が首相に就任するが、中ソ関係の改善は見られず、1968年、ソ連がワルシャワ条約機構軍を率いて「プラハの春」を軍事力で圧殺したころには、中国のソ連「修正主義」批判は「社会帝国主義」批判へとエスカレートしていった。
 ところで野に下った毛沢東は、1962年頃から学生らを組織して思想改革運動を開始した。「文化大革命(次回に詳論)」の勃発であった。文革中、毛の復権とともに中ソ対立は一段と激化した。1969年には国境問題を巡って軍事衝突(珍宝島事件) まで起こり、70年代には「敵の敵は味方」との論理から米中接近が計られ、遂に1979年4月、すでに形骸化していた中ソ友好同盟相互援助条約は、正式に破棄されるに至ったのである。
Olive Diary DX Ver1.0

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