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2010.2月社会主義の歩みと将来への展望
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2010/04/16
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第67回 ケ小平の「改革・開放」政策
広島大学名誉教授 北西允
生涯に三度失脚し、三度復権を果たしたケ小平(1904〜97)は、文化大革命の収束以来現在に至る中国の基本路線を確立した中心人物である。
過去二度の失脚後、一九五六年、党総書記の地位に上がり詰めた彼は、毛沢東路線に疑問を抱き、毛が「大躍進」「人民公社」政策の失敗を理由に、やむなく国家主席の地位を劉少奇(1898〜1968)に譲った後、ケは劉と組んで農家の自主生産を部分的に認めるなどの改革に乗り出した。1962年にケが唱えた「白い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」との標語はあまりにも有名だが、それは、生産の発展に寄与する方策であれば、必ずしも社会主義の原理原則に捉われる必要はない、という趣旨と解される。
こうした劉、ケの改革政策は、なおも党主席の地位を保っていた毛沢東の逆鱗に触れ、
二人は文革中「悔い改めない送資(資本主義への道を突き進む)派」のレッテルを貼られて失脚した。劉は幽閉中に死亡するが、1972年、ケは周恩来の工作によって三度目の復活を遂げた。1976年に周、毛が相次いで世を去った後、彼は、国家主席や党主席の地位には就かなかったものの、自他共に許す党と国家の「最高実力者」としての立場を築いていった。毛と異なりケには深遠な理論的著作類はない。毛が理想主義者だとすれば、ケは実務家であり、現実主義者だったと言えるだろう。
中国の「最高実力者」として1978年から翌年にかけ、初めて米日両国を視察し、先進
資本主義国の現状に触れたのが「改革・開放」政策発想の引き金になったと言われる。「改革・開放」政策は、農村部では先ず人民公社を解体し、経営自主権の保証を通じて農民の生産意欲向上を目指す「生産者責任制」を採用した。都市部では外資の導入を促進し、広東省の深?、福建省の厦門には「経済特区」、上海、天津、広州、大連などの沿岸都市には「経済技術特区」をそれぞれ設置し、華僑・欧米などの外資を積極的に受け入れるとともに、企業の経営自主権を大幅に容認した。
毛沢東時代に混迷を極めた中国政策は、ケの「改革・開放」政策によってようやく発展の端緒を掴んだと言えるが、それは同時に、中国社会に大きな亀裂を生み出す要因ともなった。沿岸部と内陸部、都市部と農村部の格差が著しく拡大し、加えてインフレや失業問題の深刻化、党・国家官僚の腐敗の蔓延によって人民の不満は次第に高まっていった。こうした情況を背景に1989年、「六・四天安門事件」が勃発する。
1989年代初頭、ケは、信頼する胡耀邦、趙紫陽をそれぞれ党主席、国務院総理に配し、自らは党軍事委員会主席の地位にあった。胡や趙が学生・青年らの運動に一定の共感を抱いていたのに対し、彼は、ソ連圏諸国の動向に目を向け、若者らの「民主化」運動を武力で鎮圧することを厭わなかった。かつて中ソ論争の立役者として名を馳せたケ小平には、常にソ連型社会主義を反面教師とする視点が貫かれていた。
「天安門事件」によって一時頓挫を余儀なくされた「改革・開放政策」は、ケの「先富論(富を築けるものを先行させ、そして落伍したものを助けよ)を導きの糸として継承・
発展されていくのである
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