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【7月】第48回 中国の「文化大革命」(1)
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2008/07/31
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第48回 中国の「文化大革命」(1)
「大躍進政策」の失敗を認めて、劉少奇に国家主席を譲った毛沢東は、やがて奪権の機会をうかがうようになる。国防部長だった彭徳懐は、「大躍進政策」「人民公社」に公然と異議を唱えて既にその座を追われ、林彪が人民解放軍の頂点に立っていた。毛は林を頼み西、林は国民の間に広がっていた毛に対する個人崇拝熱を一層激しく煽りたてた。1964年、林彪は『毛沢東語録』というタイトルの文庫本を編纂し、その大々的普及に努めた。
毛沢東は、フルシチョフに代表される「現代修正主義者」を、対ソ融和・対中封じ込め政策を強めるアメリカ帝国主義を利する者だと考えていた。アメリカ帝国主義は、現代修正主義者の授けをかりて中国革命を平和裏に転覆させようと狙っている(和平演変)という考えである。毛は、フルシチョフの路線に極めて批判的だった劉少奇やケ小平らの「実権派」さえも、現代修正主義に通底する者と断ずるようになっていった。毛沢東はまた、ソ連の経験に鑑み、それを「反面教師」として国家と党官僚の特権や腐敗を根絶しようとの意図を持っていたように思われる。軍の階級章の廃止や肉体労働の重視は、それを端的に表している。平等主義こそ毛のモットーだったのだ。
1965年1月、毛沢東は公然と「党内の資本主義の道を歩む実権派」に対する闘争を開始した。大文化革命はまず文芸の分野からはじまった。「現代修正主義者」を批判する壁新聞がいたるところに張り出され、学生らを中心に「近衛兵」が大掛かりに組織された。批判の対象は、やがて経済・社会・政治の全領域に及び、遂には党や国家の幹部にまで上り詰めた。「実権派」「走資派」との糾弾を受けた劉、ケらは失脚し、劉は幽閉中に死亡し、ケは監察処分の下におかれた。替わって台頭してきたのが、毛の新たな連れ合い・江青(1914〜91)らの「四人組」である。彼らは、毛の意を汲んで林彪とともに文革を指導するようになった。 文革の嵐は止むことを知らず、全国各地に拡がって次第に先鋭化していった。この間、知識人らは「下放」されて厳しい農業労働に従事させられ、「ブルジョワ分子」は激しい糾弾にさらされ、武闘に乗り出した近衛兵は各地で荒れ狂い、互いに衝突を繰り返して夥しい数の犠牲者を出した。この大混乱の最中、党規約で毛沢東の後継者とまで謳われた林彪は、毛沢東崇拝の行き過ぎを咎められて?毛の暗殺を企他といわれる。だが、それに失敗した林彪は、1971年ソ連への亡命の途次モンゴルで墜死するという、いささか不可解な事件がおこった。
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