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【8月第49回 中国の「文化大革命」(その2)
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2008/08/31
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自立的連帯を求めて(49 )
第49回 中国の「文化大革命」(その2)
毛沢東の「党中央を砲撃せよ」「造反有理」等のかけ声のもとに開始された「文化大革命」
であったが、時の経過とともに遂には毛自身も収拾できないほどの大混乱に陥った。犠牲者の数は、一説には千万人台に上ったとも言われ、工業生産は20%も下落し、多くの貴重な文化財が失われた。
毛沢東は、混乱した社会を立て直すため、1971年の林彪の死後、失脚していたケ小平を党中央に呼び戻し、毛と親密な関係を保ちながら文革派と実権派の調停者の役割を務めてきた周恩来と協力させて、党権力の維持と国力の復興を図ることにした。しかし、の方針転換に反対する江青らの文革強硬派は、周の失脚を狙って新たに「批林批孔」(林は林彪、孔は孔子にかこつけて周恩来を指す)運動を起こし、なおも強引に文革を推進しようとした。だがこの企ては、文革によって言語に絶する辛酸をなめた国民大衆の支持をもはや得られず、結局失敗に終わった。1976年の周、毛の死後、江青らの「四人組」は逮捕され、これによって10年間に及んだ「文化大革命」はようやく終息をみた。
1981年の共産党中央委員会総会は、文革を「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱」と総括し、その意義を全面的に否定した。なお毛沢東については「文革では重大な誤りを犯したが、功績の方が誤りより大きい。功績第一、誤り第二である」との評価が定まっている。
だが、「文化大革命」の全容は、今なお明らかではなく、党中央の総括も生煮えの感をぬぐい得ない。
毛沢東思想の特徴のひとつは、指導部が孤立し硬直化して、大衆から遊離する危険性を絶えず力説したこと。そしてその危険性を矯正する方法として、単に下からの批判や挑戦を受け入れるだけでなく、積極敵にそれを奨励し助長した点にあった、と言ってよかろう。しかし反面、彼の「民主主義論」は、党が、常に指導的立場に立たねばならず、何がなされるべきかを決める最終的な採決者でなければならない、ということを当然視する、という特徴を兼ね備えていた。
毛は、自らが巻き起こし、励ました運動が、党を埋没させそうな気ざしを見せたとき、党の指導性を確保することが決定的に重要であると考えるに至った。毛は「文化大革命」の嵐の中で各地にいわば自然発生的に生まれた「革命委員会」が、党と同様の担うことができるとか、あるいは党に取って代わられるべきだ、などとは一言も言わなかったことは記憶に値しよう。
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