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【9月】第50回 日本社会党の統一(再分裂) と55年体制の
2008/09/15

社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自立的連帯を求めて
広島大学名誉教授 北西 允
第50回 日本社会党の統一(再分裂) と55年体制の成立
 保守勢力が改憲の勢いを加速させる中、左右に分裂していた社会党に統一の機運が高まり、1955年、左派の階級政党論と右派の国民政党論を折衷した「階級的大衆政党」という規定で左右両派の統一が成った。統一綱領も、左右両派の妥協の産物で、護憲という点では一致しつつも、総体としては、首尾一貫性に欠けていた。委員長には左派の鈴木が、書記長には右派の浅沼が選ばれた。統によって社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。
 社会党の統一に政権喪失の危機を感じた自由・民主両党は、財界の強い働きかけもあって、戦前の政友vs民政以来の長年にわたる確執を乗り越え、同年、自由民主党を結成し保守永続政権の基礎を固めた。左右社会党の統一は、保守合同を促しただけではなかったのかとの疑問が残る。というのも統一した社会党は、わずか5年後、基地貸与条約から一種の軍事同盟条約に転換を遂げる60年安保改定に際して、反対の左派と賛成の右派に分裂したからである。離党した右派の西尾、河上派の一部は、民主社会党(民主社会主義という表現を嫌って後に民社党と改称)を結成した。民社党離反の背後にはアメリカ政府の支援もあったと言われる。
 民社党の離党後も、社会党の野党第一党の地位は揺るぐことなく、保守勢力に対する革新勢力の中軸の地位を占め続けた。社会党は、安保改定反対闘争と三井三池党争を全力で闘った。それらは空前の歴史的大闘争であった。だが、安保条約の改定は阻止できず、三池闘争は敗北に終わった。浅沼委員長暗殺後の1960年の総選挙で、委員長代行を務めた江田三郎(1907〜1977) の率いる社会党は145議席を獲得、民社党参加者の議席数をかなり奪い返した。だが一方、岸信介内閣が倒されたあとを継いだ池田勇人の自民党は、296もの議席を獲得した。ここに、保守vs革新のいわゆる「55年体制(政治学者・升味準之輔の造語)」「一か二分の一政党制」が定着することになった。それは、社会党が議員党的体質、日常活動の不足、労組依存(成田三原則)を深めることによって政権獲得の展望を切り開くことができず、自民党は党是である改憲に必要な両院の三分の二の議席を確保できない、という体制だった。それはまた、両党が日本の政治を主導した体制であったとともに、表面=対決、裏面=妥協の政治体制という側面をもっていた。
Olive Diary DX Ver1.0

Copyright © April,2005 新社会党広島県本部