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10月 】第51回 60年安保後の日本社会党と新たな綱領的文
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2008/10/17
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第51回 60年安保後の日本社会党と新たな綱領的文書の採決
安保改定時に右派が離脱して民社党を結成したあと、社会党内では新たな路線対立が顕在化してきた。江田が、社会党が目指すべきは、抽象的で迂遠な目標ではなく、人類が既に現実化したもの、すなわち@日本国憲法の戦争放棄条項、Aイギリスの議会制民主主義、Bアメリカの高い生活水準、Cソ遵の優れた社会保障制度を組み合わせた社会であるという「江田ビジョン」を提唱したのが、その発端であった。このビジョンは、ほぽ同じ時期、共産党内をも揺るがせたイタリア共産党の「構造改革路線」にヒントを得たものと見ることができる。
親中派と目された佐々木更三(1900〜85)派や親ソ的傾向のあった向坂逸郎(1897〜1985)が指導する社会主義協会派は、「江田ビジョン」を社会党の目標を貶めるものであり、新たな装いを凝らした改良主義に過ぎないと反発した。ただ、協会派に勢力を侵食され続けた佐々木派には、後に江田派に組する局面もみられたが、江田派は徐々に劣勢となり、1966年には伸張著しい協会派主導下に、綱領的文書とも言うべきマルクス主義的な「中期路線」『日本における社会主義への道』(通称『道』)が、党大会で採択された。
『道』は、独占資本主義国日本の社会主義的変革を唱えた。主敵は日本の独占資本であり、対米従属は外交交渉によって解決できる、とした点が共産党の立場と異なっていた。社会主義的変革は平和的に達成できる、と『道』は主張した。その根拠として、@民主主義制度および意識の発達と定着、A社会主義への移行のための物質的基礎の成熟、B勤労大衆の力量の増大、C国際環境の有利な変化が展望できることが挙げられた。
『道』によれぱ、社会党単独、あるいは社会党主導の過渡的連立政権を樹立し、自衛隊・警察の中立化ないし革新側への傾斜を図り、官僚を掌握するとともに、マスコミを中立化または革新側に引き寄せ、保守派を孤立に追い込んで、「護憲・民主・中立」の諸政策を実現する。ついで過渡的政権を、漸次社会主義政旛に発展させ、国家機構を掌握し、アメリカの干渉を排除しつつ、生産・流通の主要部分の社会主義的変革をはかり、労働者階級と社会党の指導権を確立して、民主的多数派を社会主義的多数派に転化させる旨が説かれていた。
『道』が猫く社会主義のビジョンによれば、重要産業およびサービスは、有償によって公有化し、農業は自主的に協同化をはかり、中小企業は業種別に協同化し、商業にはあえて無用な規制は加えないという。経済計画は、中央・地方に分かれるが、漸次地方計画に重点をおいて、労働者・農民その他の代表を参画させることになっていた。
しかし程なく、このような協会派主導の古典的マルクス主義の路線は、日本の実情に合わないという反発の声が、党内の大きなうねりとなって高まっていった。
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