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11月 】社会主義の歩みと将来への展望
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2008/11/19
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社会主義の歩みと将来への展望
−個人の尊厳と自律的連帯を求めて−
第52回 日本共産党の再建から「自主独立路線」へ
北西允
戦争中、度重なる弾圧によって壊滅状態に陥っていた日本共産党は、戦後釈放された徳田球一(1894〜1953)らによって1945年末に再建された。同党は翌46年、中国から帰国した野坂参三(1892〜1993)のイニシャチブの下、合法的手段によって民主主義革命を完成し引き続き社会主義革命に発展させる、との方針を採択した。
ところがコミンフォルム〔国際共産党情報局、1948年創設、1956年解体〕は、1950年1月、占領軍を解放軍と規定し合法的革命を目指す日本共産党の方針を、マルクス=レーニン主義とは縁もゆかりもないと激しく論難した。この批判を受けて、党は、徳田、野坂らの「所感派」(主流・武闘派)と宮本顕治(1908〜2007)らの「国際派」(反主流・反武闘派)に分裂し互いに激しく抗争した。同年6月に勃発した朝鮮戦争を契機に、占領軍は混迷する共産党に対し、国会議員の公職追放・レッド・パージなどの厳しい弾圧を加えた。そのため徳田、野坂は密かに中国へ亡命したが、主流派は、彼らの指示に従って「軍事方針」を採り、「山村工作隊」『中核自衛隊」を組織して各地で火炎瓶闘争などの過激な運動を繰り広げた。この戦術転換は、支持者にさえ受け入れられず、1952年の総選挙で党は議席ゼロに追い込まれた。
その後、徳田は中国で病死するが、1955年に帰国した野坂は宮本らと和解して、非公式の全国協議会(六全協)を開き、党は合法的活動方針に立ち返っていった。宮本は1958年の党大会で書記長に選出され、合法路線が党の公式路線として定着するようになった。だが、こうした路線転換に反対する一部の学生・労働者党員らは、武力革命を唱えて反帝・反スターリニズムを標榜する様々な運動体を立ち上げた。
共産党は1961年の大会で、党史上初めて自前の綱領を策定した。それは、日本を「高度に発達した資本主義国でありながら、なおアメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定し、「党と労働者階級の指導する民族民主統一戦線が、国会で安定した多数を占めることによって統一戦線政府を樹立し、それを革命権力に発展させる可能性がある」と説いた。綱領はまた、日本の革命は、反帝・反独占の民主革命を経て社会主義革命の段階へ移行できると述べ、伝統的な二段階革命論を踏襲するとともに、革命が平和的に遂行できるか否かは「敵の出方」によると述べた。なお、引き続き綱領に明記された「プロレタリア独裁」という用語は、後に「執権」と改められ、結局は削除される。一方、レーニンの党組織論に由来する「民主集中制」はそのまま維持された。
この綱領策定過程で、日本の独占資本を主敵と見、当面する革命を社会主義革命だと主張した党員らは除名され、イタリア共産党の創始者の一人・A グラムシ (1891〜1937)の思想を基に新左翼諸党派を結成した。その後日本共産党は、1963年の部分的核実験禁止条約に反対してソ連共産党と対立関係に陥り、また1966年には毛沢東による「修正主義批判」に反論して中国共産党とも袂をわかった。これらの過程でソ・中を支持した一部党員らは除名されて、それぞれ別党コースへふみだしていった。
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