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3月 第56回チェ・ゲバラ、更なる革命へ
2009/04/16

社会主義の歩みと将来への展望ー個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第56回チェ・ゲバラ、更なる革命へ
広島大学名誉教授 北西 允

 カストロの盟友となってキューバ革命を成功させたチェ・ゲバラは、1962年の「キューバ危機」後、工業相という政府の要職を捨てて更なるゲリラ闘争に身を投じていく。それは、彼にとってソ連の核ミサイル持ち込みに端を発した「キューバ危機」を巡る、ソ連の頭越し対米外交(これについて毛沢東は、フルシチョフを冒険主義と日和見主義の二重の誤りを犯したと激しく弾劾した)に嫌気がさしたからであり、それにも増してアルゼンチン人である彼には、キューバ革命はあくまで一つの通過点であり、
「世界革命」が最終目的だったからである。
 カストロも、ソ連に対する不信感をある程度共有したものの、現実主義者の彼は、「キューバ危機」後もソ連の援助を不可欠と見、ソ連との友好関係維持に努めた。これに対し理想主義者のゲバラは、1965年、妻子を残し「別れの手紙」をカストロに託してキューバを後にした。最初に向かったのはアフリカのコンゴであった。当時コンゴは、ベルギーの植民地から離脱したばかりで、政治的にも経済的にも混沌の最中にあった。ゲバラは反政府ゲリラ闘争の指導に当たったが、兵士等の士気の低さに絶望し、
わずか1年で密かにキューバに舞い戻ってくる。
 しかし彼は、再び何人かの部下と共に程なくキューバを離れ、南米の中央部に位置する最貧国ボリビアに潜入した。彼は、ボリビア共産党第一書記のMモンヘと連絡をとったものの合意を得るに至らず、山中を移動しながら孤軍奮闘したが、キューバ革命の場合と違って殆ど住民の支持を得ることができなかった。
 米CIAは、ゲバラの動静を周到に追跡しながら、ボリビア政府軍を指導して次第にゲバラを追い詰めていった。そして遂に1967年10月9日、彼は政府軍に捕らえられ、裁判にかけられることもなく銃殺された。享年39歳であった。
 ところでゲバラは、革命キューバ政府の要職にあった間、国連をはじめ各種の国際会議に出席し、世界の諸国を訪問している、1959年、日本を訪ねた時大阪の宿を抜け出し夜行列車に乗って広島に来ている。ゲバラは、平和記念公園の慰霊碑に献花した際、案内人に「日本はアメリカにこれほど酷いことをされなが,未だアメリカの言いなりになっているのはなぜか」と問いただしたと言われる。
1 9 6 0 年代末、「大学闘争」が盛んだった頃、ゲバラは学生間でカリスマ的存在と崇められていたし、今なお彼は、そのカッコいい風貌とも相俟って、人民をこよなく愛する無欲で誠実な革命家の模範として広範な信奉者を集めている。確かに彼は、革命政権の中枢にあった時も、しばしば労働者や農民の間に入って汗を流して働いたし、多く社会主義革命家が政権の奪取後は、権力亡者として傲慢に振る舞った事実を知る者には、権力の座に安住することなく、更なる革命へと乗り出していった彼こそ、真に人民に奉仕する革命家の典型だと讃えられるのも、うべなる哉で
ある。
Olive Diary DX Ver1.0

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