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2010.4月 社会主義の歩みと将来への展望第69回 東欧共
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2010/05/15
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社会主義の歩みと将来への展望
個人の尊厳と自律的連帯を求めて
第69回 東欧共産圏の崩壊 上
広島大学名誉教授 北西 允
ゴルバチョフ改革の一つに、F・シナトラの有名な歌「マイ・ウェイ」に因んで名づけられた「シナトラ・ドクトリン」というのがある。それは、1956年の「ハンガリー動乱」や1968年の「プラハの春」の武力鎮圧を正当化した「ブレジネフ・ドクトリン=制限主権論」を否認した新ドクトリンのことである。ゴルバチョフは、1988年にユーゴスラビアを訪問し、スターリンによるユーゴ共産党のコミンフォルム追放を謝罪するとともに、東欧諸国の自主決定権を認める「シナトラ・ドクトリン」を宣言した。
この宣言を契機に、東欧では次々とソ連型共産主義からの離脱が企てられていく。ポーランド国民は、以前にも帝政ロシアの支配下に置かれ、東方正教ではなくカトリック教を信奉し、1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書によって国土の分割を強いられた厳しい経験を持つだけに、外からソ連型共産主義を押し付けられた東欧諸国民の中でも反ソ・反ロ感情がひときわ強かった。1980年頃からL・ワレサ(1943〜)の率いる自主管理労組「連帯」が活発に動き出し、一時非合法化の悲運に遭うが、なおも執拗な活動を続けて遂に1989年、統一労働者党(共産党)政権との話合いを通じて複数政党制による自由選挙の実施を勝ち取った。同年の選挙で「連帯」は圧勝し、翌90年ワレサは、新生ポーランド共和国の大統領に選出された。
ハンガリーでは1988年、民主化運動の高揚を背景に開かれた社会主義労働者党(共産党)の全国集会で、1956年の反ソ暴動以来、ソ連の後ろ盾で権力の頂点に立っていたカダルが解任され、翌89年には党の指導性の削除、大統領制への移行、国名の人民共和国から共和国への変更を含む憲法改正が行われ、社会主義労働者党は、党名を社会党と改称して自ら脱共産化を図った。1990年に自由選挙が実施された結果、中道政党「民主フォーラム」が第一党となり、その後政局は二転三転するが、ソ連型社会主義には終止符が打たれた。
チェコスロバキアでは、「プラハの春」が踏みにじられて以来、改革派のA.ドプチェク(1921〜92)に替わるフサーク共産党第一書記兼大統領の支配下で「正常化」路線が採られていた。1977年に人権抑圧に対する抗議文「憲章77」を発表した劇作家兼俳優のV・ハベル(1936〜)らも弾圧の対象となった。フサークは、1987年に党第一書記をヤケシュに譲って、ある程度、改革を認める姿勢を示したものの、依然大統領職にとどまっていた。しかし1989年、スロバキアの大学生がブラスチラバ(現在の首都)で組織した反政府デモを皮切りに、プラハやその他の都市でもストライキとデモの波が急拡大し、政府は次第に追い詰められていった。政府は武力弾圧の意思を持っていたが、軍隊や警察は動かなかった。そして同年末、共産党と「市民フォーラム」等との間で複数政党制による選挙の実施が合意され、選挙の結果、チェコでは「市民フォーラム」が、スロバキアでは「暴力に反対する民衆」が、それぞれ第一党となり、親ソ政権は遂に崩壊した。この政変は俗に「ビロード革命」と呼ばれている。
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