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【2月号】「昭和」史の中のある半生 (10)
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2013/02/28
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「昭和」史の中のある半生(10)
新社会党広島県本部顧問 小森 龍邦
一九四五年の春、県立府中中学校の入学試験のときのこと。すでにサイパン島は陥落していた。B29空爆が、この島の滑走路から往復飛行が可能になって、毎夜のごとくの空襲で日本のどこかの都市がやられているという状況であった。夜間は、爆音も大型爆弾炸裂の音もよく聞こえる。毎夜のようにどす黒い空に「ド、ドーン」という連続音が、福山市から20qも離れた府中の街にも聞こえていた。
戦局のきびしい時期ということが口実であったのだろう。入学試験は内申書と口頭試験だけということであった。学科試験をする程の体力が、中学校側にもなかったのであろう。
五年生は呉の海軍工廠へ、四年生は因島造船へ、三年生は地元の北川鉄工所へ、二年生は同じく地元の東和金属へ、いずれも通年動員にかり出されていた。中学校の教師も、それ相応に生徒とともに工場に出勤するといった具合になっていた。
口頭試験の内容が、いまから思うと、ばかばかしい内容であった。「硫黄島から、敵機B29は何時間で東京に到着できるか」というもので、その日もB29は福山から府中の街の上空を、30機ぐらい編隊を組んで悠々と北西の方向に爆音をたてて飛行していた。日本全体がマインドコントロールされていたから、それでも戦闘帽をかぶった町内会長(町の老人)が、一定の権力をもって、防空演習だのバケツリレーだのといって国防婦人会を組織し、「鬼畜米兵、撃ちてし止まん」とやっていたのであるから、コッケイ千万というところであった。
中学校には一年生しかいなかったが、授業はほとんど行われなかった。府中中学校は、海軍の将校が毎日指揮して、私たちに軍需品の整理整頓をさせていた。空襲警報発令となると、運動場の防空壕にかけりこみ、警報の解除とともに、モグラが地上に頭をのぞかせるように外に出て、また、海軍将校の指示通りの使役に服するという状況であった。
海軍の将校は、十人ぐらいを単位として班をつくらせて並ばせた、班長級のクラスメイトに、「貴様からこちらは貴様の命による」と作業内容を仕分けして、軍隊用語でわれわれを動かすといった具合であった。
ある朝、一年生だけの全校朝礼があった。校長が演壇に上がって、「いよいよ、本土決戦の日が近づいた」と前置きをして、一mぐらいの棒切れを各々が学校へ持参するようにとの指示をした。説明によるとその棒切れの先30pほどはわら縄を巻いて、敵が落下傘で降りてきたとき、20秒か30秒か、気絶状態になる、そのときをねらって、防空壕からすばやく出てその棒で敵兵をたたき殺すのだというのである。
「B29に竹やり」と自嘲ぎみの言葉が口から出たのは、戦後のことではない。敗戦直前の頃、すでに識者の間では実感として言葉になっていたのである。
日本の高射砲は7千mぐらいしか飛ばない。B29は一万mの上空を飛んでいる。備後地方は、どうでも加茂(現在福山市加茂町)あたりに最新高性能の高射砲があると聞いていた。それが7千mしか届かない。
私は府中中学校の校庭から7千mぐらいのところでB29めがけて発射された高射砲の弾の炸裂する煙のようなものを見たことがある。
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