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[3月号]文楽あれこれ 8  則藤 了
2013/03/27

文楽あれこれ 8            則藤 了

前に述べたように、西欧諸国では、ちょっとした町にオペラハウスがあるのは当たり前である。ところが、日本にはそれがない。自国の芸術に対する誇りというものがあまりないのである。これは、明治維新以来の芸術教育のあり方に最大の問題があると言っていい。
 明治以降の日本の音楽教育は、ヨーロッパの19世紀あたりの、いわゆるクラシック音楽至上主義をとり、それ以外の民族音楽などは低レベルのものとして排除した。これは、江戸時代になって急速に発展した日本音楽が、多く遊里や花柳界とともに発展したことと無縁ではない。歌舞音曲というと、良家の子女がやるものでないといった、差別的な見方がずっと行われてきた。そのため、日本の民族的音楽は、今日絶滅の危機に瀕しているといっても過言ではない。
 私たち、いわゆる団塊世代の者は、若い頃、フォークで育った世代である。歳とともに演歌に回帰すると言われているが、今の20代、30代が我々の年齢になった時、果たしてどうであろうか。もはや演歌は、今の文楽のようになっているのではなかろうか。これは、まさしく明治以来の19世紀クラシック至上主義教育が100年かけて効いてきた結果と言っていい。
 たとえば、今日かなりの学校で、文化祭にクラス対抗合唱コンクールなどが行われているが、コンクールであるから、ピアノ伴奏も生徒が行う。どのクラスにも、男女を問わずピアノ伴奏のできる生徒の2人や3人はいるのである。逆に、琴や三味線を弾ける生徒は非常に少ない。
 世紀になって、文科省は小学校で1種類、中学では少なくとも2種類の和楽器に触れさせるという音楽カリキュラムの大改訂をやった。しかし、教える側の教員にその資格がない、といっては失礼だが、事実である。2003年に広島県教委は、新カリキュラムに対応するための研修を行なった。当初50人の予定を、希望者多数のため、80名に増員するという大盛況であった。
 喜んではいけない。これは現場の教員がまじめで熱心だという証でしかない。なぜなら、ここに集まった教員たちは、いきなりカリキュラムの改訂をやられて、どうしたらよいか手探り状態で悩みを抱えた人ばかりであったからだ。私は、国語の 教員であるが、興味があったので参加してみた。その結果、驚いたのは、現場で教える教員に対して、何ら本格的な指導が行われていなかったことである。旧来の音楽教員養成課程においては、ほとんど系統的な日本音楽の教育が行なわれていなかった。従って、ほとんどの音楽科教員は日本音楽について無知である。まして、現場で教える小学校教員に至っては、音楽の専門家ですらない。その教員が、ほとんど触ったこともなかった子どもたちに教えるのである。混乱するなという方が無理である。ある学校では、教員が昔習ったことのある琴を教えている。別の学校では、困った末に、近所の神主さんにお願いして祭り囃子に使う篠笛を教えている。系統的な繋がりは何もない。これが、あるべき音楽教育の姿と言えようか。
 私が大げさに言っているのでないことは、たった一つ例証をあげれば事足りる。新カリ施行以来10年、現在日本の教員養成課程を持つ大学で、理論・実技ともに学べる日本音楽学科を持っているのは、私が知る限りでは東京芸術大学ただ一つである。

Olive Diary DX Ver1.0

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