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2013/06/02

「昭和」史の中のある半生 (12)
  新社会党広島県本部顧問 小森 龍邦  

再び主体の確立について
 硫黄島の玉砕があったのは、一九四五年二月のことであり、沖縄にアメリカ軍が上陸したのは同年四月のことであった。
 母方の叔父は、その硫黄島で戦死している。二十歳の者と、十九歳の者とをまとめて、徴兵検査なるものを受けさせていた。叔父は十九歳組であった。私の瞼に残っている叔父の顔は、まだまだ童顔から抜け切れていなかった。みんなが攻撃する。自分ひとりが突撃しなかったとて、あとは捕虜になるばかりだと思って、自爆的突撃を行って死んだに違いないと私は思った。六、七歳しか年の差のない兄のような叔父の硫黄島における最後に、今も私は思いをめぐらせている。
 県立府中中学校(旧制)の入学試験の際、試験官のひとりが、「硫黄島が敵の手にわたってしまったが、B29は、何時間の飛行で日本の空襲が可能になるか」という質問があったということについては、すでにこの稿でふれている。
 いよいよポツダム宣言受託ということになる。
 わが家には、父が度重なる召集を受けたことから軍隊生活にかかわる写真が多く存在していた。
 アメリカ占領軍がやってくるまでには、これらの写真を焼却しておかないと、どんな災難に見舞われるかもしれないと思い、敗戦後数日のうちに、それらの写真類は整理した。
 八月十五日の午後は、いくら軍国少年の気分をもっていたとはいえ、そこはやはり遊びたいばかりの少年である。午後は早々とクロネコ(水着)を持って芦田川に出かけるのが、夏の日の日常的行動であった。
 正午に天皇の「玉音放送」があるというのは、学校から聞いていたが、私はその日もクロネコで芦田川に出向いた。
 北川鉄工所(軍需工場)へ府中中学校の三年生は、通年動員にかり出されていたが、身体の弱い者、重労働のため結核になった者などは、その動員を解除してもらっていた。芦田川で、顔見知りの三年生(十五歳)に会った。
 「おい、小森君よ、日本は戦争に負けたらしいぞ」
 「そんなばかな!戦争に負ける土壇場になったら、神風が吹いて、アメリカ軍を撃退できるはずだ」
 「そんなことを言うても、今日正午頃のラジオ放送で、天皇が『降伏する』と放送をしたらしいで、小森君、不思議なことだとは思わぬか、昨日の昼頃から、空襲警報がなくなったろうが、あれが、もう戦争は終わっている証拠じゃあないか」
 こんなやりとりがあって、私は「戦争は終わった」「日本は負けた」ということを、本当のことだと受け入れた。
 府中中学校から、やがて配属将校(陸軍)や、海軍の物資管理のために常駐していた将校らも姿を消した。そして、呉の海軍工廠や、因島の造船所や、北川鉄工所へ通年動員にかり出されていた上級生は、二学期になってから、みんな帰ってきた。
 勿論、甲種飛行予科練生であった者も、軍服のままで帰ってきた。
 一年生の私たちは、急に上級生の物々しい姿を見るのであるから、学校は一転して恐いところとなった。
 上級生は、軍隊でも動員された職場でも「説教」という名の「しごき」(「いじめ」)をされていた仕返しのようなものを、最下級生の私らに容赦なくぶつけてくるという有様であった。

Olive Diary DX Ver1.0

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