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[4月号]文楽あれこれ 9 則藤 了
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2013/06/02
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文楽あれこれ 9 則藤 了
嘆いていても仕方がない。日本音楽や美術と言った、日本の伝統文化が廃れたのは、明治以降、特に戦後70年の文化教育の誤りのせいである。何によらず、レベルを高めるためには、優れた指導者が必要である。今から100年以上も前の19世紀末に、当時熊本5高の教授であった、自身ロンドン留学前の夏目漱石は、中学の英語教員全てを、半年乃至1年、英語圏の国に留学させるべしという意見を述べている。これは、21世紀を迎えた未だに実現していない。一方で日本人が英語を話せないのは、教育課程と教員のせいだとして、馬鹿な政治家どもが小学校に英語を導入した。小学校の先生にとっては、迷惑この上ない話である。
自分が本来得意でもなかった(失礼)、話すにも自信のない教師に、ろくな研修期間も設けずに、「さあ、やれ。出来なければお前に能力がないか、努力が足りないのだ。」というやり方は、山椒大夫なみにあこぎである。そのやり方は、「小・中学校で必ず和楽器に触れさせよ。」と言った時とまさしく同じである。小学校の教師には、20世紀末まで、本来採用時に高い英語能力を要求されていなかったはずである。和楽器の演奏についても同じ。和楽器は触るだけでいいが、英語は、話せるようになれ、である。何もかもが初めてで手探りだった明治維新とは違うのである。政治家や中央官僚の常識を疑わざるを得ない。
こんなやり方を、いくら続けても効果が期待できる訳がない。裾野の広がりは確かに必要だが、それだけでは効果は上がらない。世に「伯楽の諺」があるように、優れた才能を育てるためには、まずそれを見いだす能力を持つ指導者が必要なのである。英会話の出来る人材が必要なら、少なくとも、現在中・高等学校の現職英語教師の40代以下の者全員を、10年計画ぐらいで海外留学させる。小学校も、10人に1人ぐらいの割合で留学させる。そのために英語の教員を2割程度増やせば、雇用対策にもなる。それぐらいの人とと金をかけずに、教員の能力不足のせいにされては、現場はかなわない。
何によらず、優れた人材を育てるためには、それなりの環境と指導者が必要なことは論を俟たない。それなのに、原爆を搭載した飛行機に竹槍を百万本投げれば届くと言
うような時代錯誤を、まだ政府はやり続けようとしている。それについて行く国民も国民だ。
本筋に戻そう。文楽のように、たった一つやっと生き残った芸能を守り続けるためには、それなりの予算をつぎ込んだ保護が必要である。音楽家でもスポーツ選手でも、一生懸命やって一流になれば、その先に希望の光が見えている。だからこそそれを目指して努力する者(親)も多い。が、今にも消えようとする光を目指しても、その先に光はない。人間国宝になっても、経済的には知れている。しかも、人間国宝になるのは、下手をするとオリンピックに出るより難しい。フィギュアスケートは3、4歳から始める。文楽も昔はそうだったし、それが好ましい。しかし、今は20歳前後からである。それだけでも、先行きは暗い。このような芸術を守るためには、それなりの手厚い保護と、その存在価値の周知しかない。NHKはそのために金も出し、放送も続けてきたが、最近、中継が減っているのはどうしたことか。
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