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[5月号]「昭和」史の中のある半生13
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2013/06/15
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「昭和」史の中のある半生(13)
新社会党広島県本部顧問 小森 龍邦
「天皇陛下の御為に」と言っていた教師らは一転して、連合国最高司令官・マッカーサーに恭順の意を表すような授業展開をするようになった。
その頃の中学生は、軍隊のようにゲートルを巻いて通学していた。私は二学期に入ってゲートルなしで登校するようにした。それには、べつだん校則違反だなどと、教師から注意されることはなかった。
小学生の時代から、奉安殿(宮造り風の建物)と名付けられていたものが、どの学校にもあった。そこには天皇の写真(御真影と言っていた)と教育勅語が入れてあった。
校門を登下校・出入りの度に、その奉安殿に向かって、最敬礼をするようになっていた。天皇制絶対権力の思想を広く国民に刷り込むためのものであった。
ポツダム宣言受託後の中学校への登下校の際の奉安殿への最敬礼はやめた。学校側からやめてもよいという通達があったからである。
ある朝のこと、最敬礼をしない私の態度を見つけたある教師(軍国時代にはきびしく天皇制を謳歌していた)が、私の態度が気に入らないとして、職員室に呼び出した。
「いくら天皇の権限が弱くなって、マッカーサーが強いからといって、奉安殿に敬礼をしないというのは、日本国民として天皇の赤子(せきし)として、いかがなものかと思うので、君に注意を与えておく」
その時の教師の言葉であった。
「それでは、いまでも天皇の写真に最敬礼をせよと、先生は言われるのですか」
私のこの反論には、その軍国主義一点張りであった教師も、「二の句」がつげなかった。
「君、そんなに固いことを言うな、男と男の話として、ちょっと言っただけのことだから」
この人も、その頃から、マッカーサー最高司令部の動きに対して、占領軍としての威力をもつものと思いはじめていたのであろう。
中学校の一年生の私に、これというイデオロギーがあって、このような行動に出ていたわけではない。
しかし、つい数日、数ヶ月前までの「現人神たる天皇」という評価から、全く異なる民主主義の思想がマスコミ等を通じて、私の耳に入るようになった。それの方が、やや合理的であると思いつつ、そんなラジオなり新聞がいう民主主義(デモクラシー)のことを理解するようになっていたのである。
戦後、村祭りが盛んになり、神楽の「奉納」とやらが活発になった。
他所ではどうか知らないが、備後の方では、その神楽の一演目に「四郎、五郎の問答」というものがある。
「この頃、デモクラシーという言葉を盛んに聞くが、あれはどういう意味か」と、四郎が五郎に問う。五郎は答える。「おまえは、何にも知らないのか。このデモクラシーというのは、『天皇の思し召し』で平和が訪れてきたということと、インフレで家計が苦しくなっても『デモ、クラシもよい』という意味だよ」
こんな程度の笑い話にも「デモクラシー」という言葉が出て、世間では自嘲的に口走っていたこともあった。
戦後の民主主義的雰囲気は次第に、私をして「ものの考え方」の正否をめぐって、理論というものが重要な位置を占めるということを教えてくれたように思う。
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