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[5月号]文楽あれこれ 10
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2013/06/15
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文楽あれこれ 10 則藤 了
文楽では、昔から自己努力は行われている。文楽の中で、先輩・名人に稽古をつけてもらうのは、全て只である。稽古に行かないのは若手が悪い。それは、自分の師匠と芸風の違うライバルであっても構わない。時には、師匠自ら、「この演し物はあれがうまいから、習いに行け。」と、別の師匠に習いに行かせることもある。
有名な話がある。現在人間国宝の源大夫が、まだ織大夫と言った、文楽が二派に分かれていた頃の話である。ある段を、織大夫と三味線の先代野沢錦糸(ともに松竹派)が担当することになった。師匠の8代綱大夫は、「その曲は喜左衛門師匠がよう知ってはるから教えてもらえ。」と言う。二人は恐る恐る喜左衛門の所へ行った。喜左衛門は組合派の中心人物、織大夫の師の綱大夫は、元々組合派の副委員長でありながら、自分の師(山城少掾)の説得に応じて、仲間に詳しい説明もせずに松竹派にいわば寝返った人物、三味線の錦糸は、喜左衛門の弟子でありながら松竹派になった人物である。果たして喜左衛門は、「それくらい、綱大夫かて知ってるやろ。」と怒鳴った。が、「その綱大夫から、喜左衛門師匠に教わって来い、と言われました。」と言うと、喜左衛門は暫く考えて、「ほんなら、明日朝、稽古に来なはれ。」と言って、翌日30分足らずの段を3時間にわたって稽古してくれたそうである。実は、錦糸はこの段を一度勤めたことがあり、綱大夫に教わって二人で稽古すればそこそこの形になったはずである。それでも綱大夫は「喜左衛門に教われ」と言ったし、喜左衛門も、「憎さも憎し」という二人に、本気で稽古をつけた。綱大夫も綱大夫なら、喜左衛門も喜左衛門である。
これは、個人の感情を殺しても、芸を後世に残すことを最優先する、という見事な例である。
最後にもう一つ、昨年暮れに亡くなった勘三郎が得意とした「俊寛ー喜界が島」は、文楽では明治以後長い間出ていなかった。これを豊竹山城少掾が昭和の初めに復活した時、昔文楽にいた三味線弾きで、今東京にいる古老が知っていると聞き、山城少掾は東京まで出向いて稽古をして来た。その後、大阪にも知っている人がいると聞いて、そこにも習いに行ったが、二人の三味線弾きの覚えているものが、殆ど同じであったという。80年も本舞台にかかっていない演目で、教える方も舞台でやった訳でなく、師匠から稽古してもらっただけのものである。これこそが、文楽の誇る伝統である。勿論、必要と認めれば改良はする。
文楽というのは、恐ろしい芸能である。私が大好きだった4代越路大夫が、引退したときのインタビューに答えて、「もう70年欲しい。もう一生あったら、もう少しましな義太夫を語れたろう。」と言った。三味線については、正直何十年も聴いてきた私にも、全ては分からない。「テン」という一撥で、「冬の凍てつくような夕方の、遠くからゴーンという鐘の音が聞こえてくる寂しい情景」をあらわせ、というのである。「テン」と気軽に弾いても、息を詰めて渾身の力で「テン」と弾いても、恐らくは10人のうち9人までは違いが分からない。何度も話に出た、名手喜左衛門は2度も心筋梗塞で舞台で倒れた。義太夫とは、命がけの芸である。
優れた芸術は、鑑賞者の方にもそれなりの力量を要求するのである。(陰の声=違いの分からぬ者に「二度と来ない」と言われてもなぁ。)
※ 大多数の方にとっては、訳の分からん話に長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
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