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[1月号]「昭和」史の中のある半生小森龍邦
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2014/05/01
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「昭和」史の中のある半生(21)
新社会党広島県本部顧問小森龍邦
マッカーサーは、天皇の「いのち乞い」を受け入れ、日本の反動勢力の力を利用して、占領政策を進めることとした。このことがせっかく新しい平和憲法ができたにもかかわらず、日本の政治と社会を
ゆがめていくことになる。
しかし、戦時下には味わうことができなかった人権とか民主主義の空気が漂ったことだけは否めない。
その頃、物思う思春期を生きていた私にとっては幸運であった。マルクス主義ともマルクスやケインズなどの経済学説史にも出会うことができて、「思想」というものを、上すべりではあっても、多少
ではあるがかじることができたからである。
大学に行けなかったのは、父の病気のため学資の工面ができなかったからである。あえて強行することは、それまで極貧に甘んじて、私と弟を育ててくれた母があまりにも不憫でならなかった。そこ
で、私は大学進学をやめ、弟には定時制高校に進むようにしてもらって、母のこれまでの労苦にむくいることにした。
それでも血気はやる私としては、どこかに若いエネルギーのはけ口を求めねばならない。それが地域青年運動、いわゆる青年団運動であった。
私は、進学できないことによって失われるものを、青年仲間の間に展開される地域活動の中で、その知識と行動力を培おうとした。
一九五六年の新春早々、ワルシャワの世界青年学生友好祭に参加して帰ってきた広島県青年連合会のある幹部から、その友好祭で出会った中国の青年から、日本青年団協議会に訪中を要請する招待状
が着く段取りになっているということを聞いた。
私はときおり、ニュースの断片的画面に見える中国人の人民服を着て活躍している姿に躍動の雰囲気を感じていた。
是非、この機会に中国に渡航して、中国革命という人類史上的動きに直接ふれてみたいと強く思った。
私はそのとき二十三歳。広島県青年連合会に一名の割り当てがあったが、並みいる県連合会幹部は二十八・九歳から三十歳台の初頭で、私と同じような願望をもっていた。
当時、広島県は広島市をはじめ、郡市が数えて二十七ということで、それぞれの郡市一票の投票で代表を決めようということになった。勿論、私は府中市青年連盟の了解を得て、手をあげることと
なった。
投票は粛々とおこなわれた。小森龍邦十八票、あとは、それぞれ一票ずつという開票結果となり、手をあげた私自身が、その結果にびっくりしたようなことであった。
どの郡市の代表だったか覚えていないが、かくなる投票の結果から、「小森君をあらためて全会一致ということにしてはどうか」という動議が出され、そこで「全会一致」ということになった。
広島県知事と県議会は、県青連が「全会一致」で中国へ代表を派遣するというのであれば、県としても、それ相応の「餞別」を予算化しなければと十万円の餞別を県議会が可決した。府中市も、それにならって十万円を予算化した。
ちょうど、その頃、「原爆乙女」の少女がアメリカに整形手術に渡航するというニュースがあり、県青連は、私の十万円から彼女に五万円を贈って、手術の成功を祈念したということである。
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