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[2月号]「昭和」史の中のある半生(22)
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2014/05/01
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「昭和」史の中のある半生(22)
新社会党広島県本部顧問小森龍邦
「共産国への渡航は禁止」という時代であった。鳩山内閣の時代ではなかったかと記憶するが、日ソ国交回復をした内閣で、多少は進歩的雰囲気もでかけた頃のことである。広島県出身の自民党代議
士の大物と言われていた灘尾弘吉とか池田勇人の衆議院事務所を訪ね、旅券発給を懇請してみたが、けんもほろろの対応で、旅券の発給は容易なことではなかった。
当時日本青年団協議会は、会員四百三十万人を擁する大組織であった。
自民党も少しはこの大票田にビビりぎみであって、われわれは、その間隙を縫って旅券獲得の取り組みを継続し続けた。
当時、自民党内の青年将校と言われていた中曽根康弘、竹下登が調停案を出してきた。
「五十人も中国へ行くということは、アメリカに対して顔が立たぬ、十五人ぐらいは政府が旅費を出すから、アメリカへも行ってくれ」というもので、結果は、東南アジアへも、西ヨーロッパへも、それぞれ分かれて、外国視察に出かけることになった。
誰が、どこへ出かけるかということは、それぞれの希望を出し合って決めようということで、第一志望から第四志望までを書くことになった。
私は、第一志望から第四志望まで、全ての欄に中国と書いた。私の中国行きは、それで、あまり詮議することなく決まった。
そもそも、中華全国民主青年連合会からの招請状は三月の上旬のことであったが、中曽根・竹下調停案を受けて、中国革命後、はじめての旅券(重光外相の「前述の諸官の保障を要請する」と書かれたもの)を持って、香港経由九龍半島をイギリスの列車に乗り、中国
領の深圳駅まで、そこから、中国政府さし向けの列車(寝台車)で、北京へといったコースであった。深圳はイギリス租借の香港との隣接地ということもあり、民衆の服装とか履いている靴などの
清潔度は、革命中国の方が一段と高い水準にあることを、この目で見てとった。
中国人民解放軍が、駅の手前の国境となっている小さな川(川幅十数米位)にかかる鉄橋を渡るとき、解放軍の女子隊員が笑顔で迎えてくれたことが印象的であった。
そこから二日半日列車に揺られて、北京に着いたのは、真夜中の十二時頃であった。駅前広場には、中国各界の青年数千人が出迎えという大歓迎ぶりで、中華全国民主青年連合会主席の廖承志(りょうしょうし)も勿論であった。
若い娘さんが花束をもって、二十二人の訪中団員にそれぞれつき添って、宿舎となっている北京飯店までわれわれを送ってくれるというもので、二十代半ばにもならない私は「男女七歳にして席を
同じゅうせず」で育っているので、中国の若い娘さんに手をつないで貰っての北京飯店までは、なんとも恥ずかしい思いで胸が高鳴っ
ていた。
後で聞いてみると、北京の演劇俳優学校の生徒たちであったということで、「ああそうか」とうなずいたような次第である。
それから十一月の月末近くまで、約七十日の中国の旅は続いた。激動する世界史を目の当たりに中国側の説明を聞きながらの七十日は、大学の学部の二つや三つを卒業したぐらいの価値があったと、私は今でも思っている
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